泰平の階~122~
早馬で届けられた項泰の書状を読んだ尊毅は顔をひきつらせた。てっきり大将軍任命の宣下であろうと思っていただけに、斎治の怒りにも等しい問責の文言は意外であり当惑した。
「主上にしては知恵の働くことをする。誰かに入れ知恵されたか……」
尊毅は投げ捨てるように書状を項史直に渡した。項史直は冷静な面持ちで読み進めた。
「これは項泰が斎興を殺害したことがばれたかもしれませんな」
「何?それはまずいぞ。いや、そうだとすれば、どうして主上は直接そのことを問責せず、このような回りくどい言葉を並べてきたのだ?」
「項泰による斎興殺害については確証がないからでありましょう。確証のないことについてはいくらでも言い逃れができますが、ここに書かれていることは客観的な事実です。それを追及されたら、簡単に言い逃れできません」
「くそっ。やはり主上に知恵をつけた奴がいるな。これでは北定を追い落とした意味がなくなる。覚然も存外役に立たん!」
どうするのだ、と尊毅は謀臣に訊ねた。項史直は書状を丁寧に畳んだ。
「こうなれば主上と全面的に対立するしかありませんな」
「いいのか?項泰が死ぬかもしれんぞ」
「やむを得ませんな。最悪の場合、斎興殺害の罪を一身に背負ってもらう必要があります」
項史直は即答した。尊毅は時として項史直の肉親であっても斬り捨てていく冷徹な言動を恐ろしく思うことがあった。
「主上と全面的に対立か……」
これは尊毅にとっては賭けにも等しかった。佐導甫や赤崔心など武人の心は尊毅に集中しているが、それでも和芳喜や少洪覇など斎治に心寄せる武人も少なくない。尊毅が斎治と対立して、どれだけの武人が味方してくれるか。こればかりはやってみなければ分からなかった。
「殿。もし殿が主上の配下として人生を終了するおつもりなら膝をついて主上に許しを乞えばいいのです。しかし、尊家の大望を果たすおつもりがあるのなら、ここで自主独立の道を歩まれるべきです」
「俺はすでに条公を裏切った。次に斎公を裏切れば、主君を二度裏切った極悪な不忠者となるぞ」
「そのようなことお気になさるな。殿が国主となり、歴史を書き換えればよいのです。条公も斎公も民を苦しめる悪逆な君主であったと。歴史を作るのは常に勝者です。敗者の弁など、将来の者達は耳を傾けることはありません」
「怖いなお前は。そのうち野心のためなら俺をも裏切るか?」
「御冗談を。項家は尊家の家宰に過ぎません。それ以上の地位は過分と言うべきでしょう」
「ふん。ここまで来たら、やるしかないか」
尊毅は覚悟を決めた。一度踏み入れた修羅の道である。今更迷いなど無用であろうと尊毅は前だけを見据えることにした。
慶師と栄倉の間で使者と書簡の往復が続いた。尊毅は斎治からの書状については、その内容については一切触れず、再度大将軍任命の宣下を願い出た。これに対して斎治は再び斎興の死に対する責任を問う内容の書状を送ったが、尊毅はこれも無視して大将軍の任命を願う返書を送り返していた。
「これでは埒があかぬ!」
斎治は激怒していた。当然であろう。主上である自分の問責の書状が悉く無視されるのである。
「誰か良き案はないか!」
斎治は尊毅からの無礼窮まる書状を床に叩きつけると、朝堂を見渡した。覚然、坊忠らを始め、多くの閣僚達は俯き、発言を拒んでいた。
『余は余と社稷のために知恵と勇気をふり絞ってくれていた臣をむざむざ手放しのか……』
北定と費俊ならば知恵の限りを尽くしてこの事態を打破する考えてくれただろうし、斎興なら勇気をもって尊毅と胸を張って対立してくれただろう。しかし、今ここに残っている連中は都合の良い時だけ斎治に追従してきた、有事の際には何の役に立たない者達ばかりである。そんな連中を斎治は家臣として遇してきたかと思うと自分に腹が立ってきた。
「もうよい!」
啖呵を切って席を立つと、斎治はそのまま奥に向かった。阿望夫人の部屋である。斎治は慶師を奪還し、斎国の国主となってから様々な寵姫を抱えるようになり、次第に阿望からは遠ざかっていた。それでも斎治は、阿望のことは正妃に等しい地位として処遇し、斎慶宮でも最も良き場所を与えて生活させていた。
『もう頼れるのは阿望だけだ』
そう考えて阿望の部屋を訪ねると、彼女は侍女と熱心に双六に興じていた。
「あら、主上。お懐かしいことです」
阿望は嫌味の一つを言うと、賽を投じた。良い目が出たらしく、きゃっと小さな歓声をあげた。
「阿望と話がある。その方達は下がれ」
斎治は侍女達に命じると、恐れる様な悲しむような顔をして去っていった。
「何ですか?そのような怖い顔をなさって。あの子達、今頃泣いておりますよ」
阿望は遊びを邪魔されたせいか、不機嫌そうな顔を斎治に向けた。
「斎興のことや尊毅のことは聞いておろう?」
それなりに、と阿望はつまらないと言わんばかりの顔をした。
「正直、進退窮まっている。どうすればいい?」
「まぁ、私は寵姫ではなく、北定の代わりですか?」
阿望は実におかしそうに笑った。その笑いには、長く相手にしてこなかった恨みのような感情が交じっているのは確かであった。
「そう言ってくれるな。余にはもうそなたしか頼れん」
「今まで散々、私のことを忘れておられたのに、都合のいい時だけ頼られるのですね」
斎治にとっては耳の痛い言葉であった。そのことは先程斎治が覚然達に感じていたのと同じ感情に違いなかった。
「そのような……」
「構いませんわよ。私は寵姫に過ぎませんから。所詮、君主の慰みものですわ」
「余はそのようなことを思ってはおらんぞ」
「費俊にお会いすればいいのです」
阿望は斎治の抗弁などもはや聞いていなかった。
「費俊か……」
費俊はまだ病のため出仕していない。それを理由に斎治は費俊の言葉を求めていなかったが、この状況下で彼の至言を得ようとするなら、こちらから会いに行く他なかった。
「そうだな。費俊であれば、何か良い助言をくれるかもしれない」
「主上、私は近々斎慶宮を出たいと思います。どこかに別荘をいただけないですか?」
阿望は唐突に言い出した。
「阿望。そなたも余を見捨てるのか?」
「見捨てる?そうかもしれませんわね。愛を失っておいて、未練がましく男に縋ることだけが女であるとは思って欲しくありませんわ」
阿望は賽を庭に向かって投げた。放物線を描いた賽は茂みに入った。
「主上は英邁でございました。国主の地位と国号を取り戻さんとする意気込みと、それを実現するだけの才気をお持ちでございました。しかしそれは国主の地位にいなかったからこそ輝き発揮されたのであって、国主になられてからはすっかりとただの貴人となりあそばされました。地位は人を変えられた。私は国主になる前の主上が好きでございました」
今の主上は好きではありませぬ、と阿望は斎治から視線を外した。斎治は何も言えず、阿望に背を向けた。侍女を呼び戻す阿望の声が無邪気に聞こえた。
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