泰平の階~120~
尊毅は、栄倉の再奪還と条行軍消滅の報告を慶師に送る一方で、斎治に対して不遜とも言うべき嘆願書を送っていた。それは自分を大将軍にして欲しいという内容であった。
「まだ興が亡くなって時が経っていないのに、その空位を欲するというのか……。なんと欲深なことか」
斎治は流石に不快感を隠さなかった。これではまるで斎興の死を尊毅が利用しているようではないか。もし目の前に尊毅がいれば、そう問い質しかった。
「しかし、大将軍ほどの地位をいつまでも空位にしておくわけにはいかないでしょう」
そう助言したのは覚然であった。目の上の瘤であった北定が消えたことにより、閣僚の中でも幅を利かせるようになっていた。
「そうよな……」
大将軍を空位にしておくわけにはいかない。そのことは斎治も承知していた。だが、斎興の死がいまだ胸裏から去らぬ今、素直に大将軍の地位を誰かに与える気にはなれなかった。
『北定ならどう意見しただろうか……』
斎治は今更になって北定が朝堂から去らしめたことを後悔していた。斎治は、北定が職を辞してから何度も復帰を促す使者を送っていたが、北定は頑として面会せず、挙句には慶師からも姿を消していた。
『費俊もおらぬ……』
斎治のすぐ傍にある丞相の席に費俊の姿はなかった。ちょうど尊毅軍が慶師を出発した頃に病を発症し、自邸で療養していた。
『余を支えてきた股肱の臣がいなくなっていく』
条家を倒し、国号と国主の座を取り戻したのが昔のように懐かしく、苦楽を共にした者達がここにいない寂寥感しかなかった。
『余が何をしたというのだ……』
斎治が思い描いていた新しい政治の姿とは随分とかけ離れたものになってしまったのは、君主としての徳の無さであろうか。そう考えると、斎治は我が身を呪いたくなった。
「主上。私も中務卿の意見に賛成です。大将軍の空位は国家の混乱を生みます。然るべき重職を空位にしてはなりません」
覚然に追従したのは坊忠であった。彼の意見には含みがある。現在、丞相は費俊のままだが、空位になっているのも同然であった。その職責は坊忠が代行している形となっているのだが、坊忠としては代行ではなく名実ともに丞相の地位に座りたいのだろう。
「ふむ……」
斎治としても丞相の地位をどうすべきか悩んでいた。丞相が病で臥せって長期に渡って朝堂に現れないというのは問題であるが、だからと言って費俊が生きている以上、その地位を追うことはできなかった。
『それに丞相の仕事は坊忠には荷が重かろう』
斎治としては坊忠のことを思えばこそ、彼を丞相にすることができなかった。
斎治がこのようにして思い悩んでいると、思いがけぬ人物が密かに斎治の前に姿を見せた。董阮であった。
斎治が項史直によって拘束されると、腹心である董阮も投獄された。斎興が入れられていた岩牢とはまったく別の場所にいたことが董阮の命を助けることになった。董阮を助けてくれたのは斎興の近侍であった。彼は当初、条行軍の襲撃のどさくさに紛れて斎興を救出しようと思っていた。しかし、それを行う前に斎興が項泰に殺されるのを目撃してしまったのだった。
「そのまま公子の敵を討ちたかったのですが、そうではなく項兄弟の悪事を天下に示すことこそ真の敵討ちになると思い、恥を忍んで参りました」
董阮の岩牢の前でその近侍は叫び、牢の鍵を壊して董阮を救出してくれたのである。牢の外に出た董阮は危険を冒しながらも斎興の亡骸を見つけ出して埋葬し、近侍を連れて栄倉を脱出、一路景師を目指したのだった。
慶師までは苦難の道のりであった。いかなる者に見つかってもならず、途中で南下する尊毅軍が近づいてきたこともあって遠回りを余儀なくされた。そのため到着するのに通常以上の時間がかかってしまった。
「まずは結十に会おう」
慶師に到着した董阮は結十の行方を捜した。しかし、その結十が捕まっていると知ると、いよいよ事態が容易ならざることになっていることを悟った。
『こうなれば斎慶宮に忍んで直接主上にお会いするしかない』
斎興に従って界国に長く亡命生活をしていたが、斎慶宮は董阮にとって庭のようなものであった。少年時代、斎興や結十と街へ遊びに行くために大人達の知らない抜け道を使っていた。その抜け道が役に立ち、董阮は斎慶宮に潜入することができた。
夜になり、斎治が寝所に引き下がるのを待った。世話をする女官達が引き下がったのを見届けると、董阮は斎治の寝所に潜んだ。
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