泰平の階~20~

 慶師を脱出する。そう決めた以上は早い方がいい。北定は出発を翌日の夜と定めた。


 「いくら何でも早すぎる。準備と言うものがあろう」


 斎治の身辺に仕える従者達が口々に不平を述べてきたので、北定は一喝した。


 「だまらっしゃい!そのようなことをしているうちに栄倉から主上を捕縛する指示が到着するのだ。今は一日、いや一刻が惜しい!」


 北定としては着の身着のままでいいから、今すぐにでもここから脱出したかった。その慌ただしさを笑う者もいるが、北定は一向に構うことなかった。


 「しかし、北定。女どもは準備に時間がかかろう」


 斎治ですらそう言いだす始末であった。斎治の言う女どもとは寵姫達のことである。うんざりしながらも、北定は諭すように言った。


 「姫様達は置いて行きますように」


 「なんと!」


 斎治は驚いた。斎治が驚いたことに北定は驚いた。


 「なんとではありません。我らは物見遊山に参るのではありません」


 斎治は歴代斎公の中でも英知に溢れ、気宇も大きかった。そして斎国を取り戻そうとする野心も持ち合わせている。しかし、貴人として我儘なところがあり、物事の判断をするのに甘さもあった。


 「せめて阿望だけでも連れていきたい」


 斎治が縋りついた。阿望は斎治の寵姫の中でも一番のお気に入りであった。美しい女性であったが気が強く、時として斎治に対しても強く振舞うことがあった。


 『長い旅の間、文句を言われなければ良いが……』


 と思う反面、あの気の強い阿望なら、道中で弱気になるかもしれない斎治を励ましてくれるかもしれない。逃避行が長くなるのなら、阿望のような存在も必要であろう。


 「阿望様、お一人なら」


 北定は渋々といった表情で阿望の帯同を認めた。




 北定は当然のことながら斎治の脱出については秘密裏に行うことにした。この秘事を知るのは斎治と阿望を除けば数人しかない。北定は自分の家僕にも内密にしていたが、一人の男にはこの秘事を打ち明けることにした。


 その男は『岩殿』と言われていた。正式な姓名は知らぬ。あるいは本人も知らぬかもしれない。廃屋が如き斎慶宮に盗賊や宿無しが寄宿していることは先述した。岩殿は斎慶宮を塒にしている盗賊の頭目であった。


 北定はかなり前からこの岩殿に目をつけて、手なずけていた。最初は警戒していた岩殿も北定のことを『北の旦那』と呼ぶようになり、北定が年月かけて説いたおかげで斎治に対しても同情するようになっていた。


 「岩殿、いよいよ活躍してもらう機会が来た」


 夜になり、岩殿の塒を訪ねた北定は、人払いを願って話を切り出した。


 「では、主上はいよいよ逃げるのかい?」


 逃げるのではない、と言いかけたが、北定は言葉を飲み込んだ。今は岩殿と口論している時ではない。


 「そうだ。予てより打ち明けていた計画通りに暴れてもらいたい」


 北定の計画では、岩殿達に大暴れしてもらい、その隙に斎慶宮から脱出するというものであった。


 「へへ、でもよ、北の旦那。俺が裏切るかもしれないぜ。今すぐに主上を捕らえて、探題に突き出すかもしれないぞ」


 岩殿は下品に笑った。そのようなことを言われるのは、想定の範囲内であった。


 「斎慶宮にはまだ隠れた宝物庫がある」


 岩殿の目が真剣になった。斎慶宮にあった宝物のほとんどは岩殿をはじめとした盗賊に奪われて当の昔に失われていたが、実は地下に隠し宝物庫があるのは事実であった。


 「その宝物をすべてくれてやる。もはや慶師を去る我らには必要のないものだ。主上を捕らえて得るよりも多くの金銭を手にすることができるぞ」


 岩殿の喉仏がぐいっと動いた。


 「それに多くの女官を置いていく。それもお前達の好きにするがいい」


 宝物だけでは岩殿しか納得しまい。彼の部下達をも巻き込むには、非道かもしれないが人身御供を用意するしかなかった。


 「本当にいいのか?北の旦那」


 「構わん。さっきも言ったが、今の我々には宝物も女官も正直足手まといだ。岩殿、しっかりと考えろ。仮にお前達が主上を捕らえて探題に差し出しても、慶師で狼藉を繰り返してきたお前達を探題が許すと思うか?表向き報奨を与える振りをして一網打尽にするだけだぞ」


 「そりゃ……そうだな。しかし、騒ぐと探題の奴らが来るぞ」


 「そこは私がなんとかする。夜半までは探題兵が動かないように自ら探題に乗り込むつもりだ」


 岩殿の目から迷いが消えたように見えた。


 「北の旦那。もし主上が斎国を再興したら、俺でも将軍になれるか?」


 「きっと主上に進言しよう。しかし、それも主上が慶師を脱出してからだ」


 「勿論。将軍のことゆめゆめ忘れないでくれよ」


 北定は大きく頷いて見せたが、欲深い奴だと内心侮蔑していた。

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