泰平の階~2~

 かつて中原にあった斎国という名前の国家はすでにない。数百年前に斎公に取って代わって国家の実権を得た条公によって国号を奪われた。それより斎公は代々、かつての国都であった慶師―斎都とも呼ばれる―で逼塞する月日を過ごしていた。


 『いずれは条公を討って国号を取り戻す!』


 国号を奪われた当初の斎公達は、そのことを斎公に即位した時の誓いとしてきたが、年代を重ねるごとに怨念はやがて消えていき、斎公としての地位だけでも保全されただけましと考える様になっていた。


 その父祖が忘れていた怨念を一身に引き受けたのが斎治であった。斎治は幼少の頃から勉学を好み、斎公の歴史を知る度に斎公のおかれた現状に悲しみ、憤怒していた。いずれ斎治は斎公となる。その暁には斎国を復興してみせると常々考えていた。


 斎治が斎公の地位を父から相続されたのは、今から十一年前の義王朝五三四年のことであった。即位するまで斎護と名乗っていた。しかし、即位する時に改名したのである。あの時のことを斎治は忘れたことがなかった。


 斎公が即位するには条公の許諾が必要であった。それだけでも屈辱であるのに、条公によって改名を迫られることもしばしばであった。斎治の時も当時の条公―条智は、改名を迫ってきた。


 「余の名前である智を与える故、斎智と名乗るがよい」


 条智は恩着せがましく迫ってきた。若き斎智は、得意満面の条智に怒りを覚え、屈辱が全身に感じた。


 『絶対に名乗ってやるものか!』


 斎治は歯を食いしばり、その言葉を飲み込んだ。今、そのことを言えば、斎治はすぐに囚われて、折角即位した斎公の地位をはく奪されてしまう。それを覆すだけの力はまだ斎治にはなかった。


 「条公の名前をもらうなど畏れ多いことです。ですが、ご好意を無駄にはしたくありませんので、同じ音である『治』と名乗らせていただきます」


 斎治は如才なく言った。斎治の屈服した言動に満足した様子の条智は、そうするがよいと鷹揚に頷いた。


 『馬鹿め……』


 斎治は密かにほくそ笑んだ。斎治とは文字通り『斎を治める』と読めるのであるが、条智はまるで気が付いていなかった。条智は若き頃はそれなりに聡明な国主であったらしいが、老いて知性に曇りが生じているのかもしれない。


 ともあれ斎公となった斎治は、表面上、条公に従う素振りを見せながらも、本懐を供できる者達を捜した。そうした中で出会ったのが費兄弟であった。


 費家は代々斎公に仕えてきた名家で、斎公が国主の座を奪われ慶師で逼塞してからも斎慶宮に出仕し続けており、その忠誠心を遺伝的に引き継いだのが費兄弟であった。


 斎治よりも十歳ほど年若い費兄弟は、斎公の現状を憂いていた。特に兄である費資は斎治以上に激情的で、


 『公の爵位を持つ者が頭を下げるのは義王のみ。何の権限があって斎公の即位に際して条公に頭を下げねばならないのか!そもそも条公とは国号を奪った謀反人ではないか!』


 費資は周囲を憚らず主張した。今回の策謀も企画立案したのは費資であり、弟と共に精力的に活動してきた。費兄弟は数年かけて慶師周辺の諸侯を訪ね、内情を探り、蜂起した際に協力してくれる諸侯を捜し、時には洗脳するようにして諸侯を説き続けた。


 費資の描いた蜂起への道筋は壮大なものであった。


 『慶師近隣の藩主、諸侯がこぞって決起し、まずは慶師の探題をせん滅する。そしてその勢いをかって一気に条都を攻め落とす』


 費資が自分の蜂起への絵図面に自信を持ち、いよいよ実行へと移行したのは、烏林藩主である烏道の賛意を得たことであった。


 ここで藩という条国特有の制度について説明したい。


 他国でも有力な諸侯に封土を与え、領地経営をさせる例はある。しかし、これらは一般的に徴税権を握っているだけであり、領民から徴収した租税の一部は国庫に納めねばならない。これらは一般的に『領』と呼ばれた。条国ではその諸侯の中からさらに有力な者に対してより広大な領土を与え、『藩』という行政上の区分を作り上げた。


 『藩』は簡単にいえば条国の中にできた小国と言っていい。藩主は藩内の徴税権を握っており、国庫に納める必要はなかった。しかも、立法権や兵権なども掌握しており、従うべきは唯一条公の命令だけであった。但し、藩主は条国の国政に参与できる立場にはなれなかった。


 この条国特有の制度ができた経緯は判然としていない。しかし、斎国の時代からすでにこの制度は存在しており、それを条国が引き継いだことから、中原最大の領土を持つ国として必要だったからではないかと言われている。


 さて烏林藩の烏道である。彼は慶師に近い藩の藩主だけにかねてから斎公に同情し、心を寄せていた。しかし、慎重な所があり、なかなか費資の勧誘に頷くことはなかった。


 費資は三年かけて烏道を説いた。そして昨年、条公である条智が亡くなったのである。


 条智は名君とは言えないが、凡愚とも言い切れない君主であった。翼国、静国と小競り合いをしながらも、無難に条国を治めてきた。しかし、跡を継いだ条高は暗愚そのものであった。政治よりも歌舞音曲を好み、実験は家宰である円洞が握っていた。これを快く思っていない諸侯は沢山いた。


 『これぞ好機!』


 そう見た費資は半ば恫喝するように烏道を説得した。


 「烏道殿は慶師に近くの領地を持つ藩主ながら、どうして斎公の義挙に参加されない!もし義挙が成った暁に参加していなければ天下の笑いものになり、真っ先に討伐されますぞ。しかし、参加しておられれば禁軍将軍や丞相の夢ではございません」


 費資は膝を突き合わす距離で烏道に詰め寄った。烏道は費資の迫力に負けて頷いてしまった。

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