寂寞の海~50~

 章理軍はいつしか章海軍の後背に進出していた。これは意図せぬことであり、章海軍の正確な位置を把握した時すでに行違う形になっていた。章理が奇襲を決断したのも、そういう状況的な理由もあった。


 さらに状況的に言えば、章海軍は雨を避けるために天幕を張り滞陣している。すべてが章理のためにおあつらえ向きに整えられていた。


 「章理様。すぐにでも奇襲を仕掛けましょう。まだ夜ではありませんが、このまま雨に打たれていては、我らも消耗します」


 左文忠の進言を入れた章理は即座に決意した。無言で頷くことで命令を下した。やはり無言で了承した左文忠は剣を抜き、前へと振り下ろした。


 それまで森林に身を潜めていた章理軍は一斉に起き上がり、声一つ上げずに章海軍に突撃した。見張りをしている哨戒中の兵士を斬り伏せると、その場にあった天幕を引き倒し、驚いて中から這い出てくる兵士達を容赦なく斬って捨てた。


 「行くぞ!狙いは謀反者、章海の首ぞ!」


 ここで左文忠はようやく叫び声をあげた。おお、と味方が応じて、敵陣深くに突撃していった。


 章海軍は醜態というべき大混乱に陥った。ほとんどの兵士が武具をつけておらず、慌てて天幕を出たところを斬られるという状態であった。


 「いけるか……」


 遅れて敵陣に踏み込んだ章理は、味方が有利に戦闘を進めているのを見て、薄っすらと勝利の予感を抱いていた。章理からしてみれば、単なる勝利ではなく、できればこの戦闘で章海を仕留めておきたかった。今回勝ったとしても、次に勝てるかどうかは分からない。いや、負けてしまう可能性の方が限りなく高いのだ。


 だが、この時すでに章海は戦場から逃走していた。章理軍が奇襲を仕掛けてきたと知ると、なりふり構わず逃げ出していた。この行為は後になって将兵から多少の非難を受けるのであるが、章海の命を助けることになった。逆に言えば、章理からすると千載一遇の好機を逃してしまう結果となった。


 戦闘は数刻続けられた。戦闘が終結した時にはすでに風雨は止んでおり、雲間から月が顔を出していた。月明かりに照らされた戦場には、章海軍が無残にも敗れた痕跡だけが広がっていた。


 「大勝はしましたが、章海を取り逃がしました」


 全身泥と血に塗れた左文忠が報告した。その姿に章理は敬意を感じずにはいられなかった。


 「すべてが上手くいくとは限らないからな。今は素直に勝利を喜ぼう」


 そう言って章理は戦いに参加した将兵達を労ったが、内心では気が気でなかった。間を置かずして章海が反撃してくる。そう考えると、勝ちを喜べる場合ではなかった。


 「文忠。これからのことだ。このまま叔父上の姿を捜すか、鑑京に進むか。どちらがいいと思う?」


 夜となったのでひとまず全軍を休ませることにした章理は、その間に方針を決めてしまおうと左文忠に諮問した。明日の早朝には軍を進めておきたかった。


 「闇雲に章海の姿を捜すよりもひとまず国都を目指しましょう」


 「そうだな」


 章理も同じように考えていた。章海軍の敗残兵の何人かは鑑京へと逃げ込んだであろう。彼らが章理軍大勝の情報を広めてくれれば、鑑京を得れば事態は大きく進展する。


 「そうしよう。文忠も今晩はゆっくり休んでくれ」


 「はっ」


 左文忠が引き下がると、章理も睡魔に襲われた。印国に戻ってきて初めて熟睡ができそうであった。




 思いもよらぬ奇襲で敗走を余儀なくされた章海であったが、章理軍の追撃がないと分かると逃げるのをやめた。そしてその場に留まり、同じように逃げてくる兵士を集めて態勢を整えた。


 「追撃して来ないということはそれだけの余力がないということだ。逆襲しよう」


 そういう思考ができるところが章海であった。奇襲によって大敗したが、これをあくまでも局地的な敗北として捉え、決して悲観的にならなかった。寧ろ冷静に章理軍の実情を推察し、勝つために次の行動を起こそうとしていた。


 さらに章海に追い風となったのは、途絶していた銀芳軍と連絡が取れたことであった。銀芳軍は、遊撃戦を繰り広げてくる裴包軍をなんとか振り切り、北上を開始していた。


 「よし、これならば勝てるぞ。全軍、気を引き締めろ!敵は寡兵だ。しかも銀芳軍も北上している。今度こそ理想的な挟撃戦ができるぞ」


 章海は全軍に激文を出して士気を高めた。敗走していた将兵達も気分を檄文に触れて、敗北で沈んでいた心を立て直すことができた。


 敗走させられた翌日には章海は軍を南下させ、鑑京を目指そうしていた章理軍の進路を遮断するように陣を広く展開した。


 『今度は負けん』


 奇襲さえ喰らわなければ、寡兵の章理軍など物の数ではない。章海はどっしりと腰を下ろし、章理軍を待ち受けることにした。

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