寂寞の海~48~

 章理はまだ南判島にいた。すぐにでも出陣できる体制を整えつつ、印国本土の様子を探っていた。そうしているうちに銀芳が三千名の兵を引き連れて南部に出陣したという報せが届けられた。


 『来た!』


 章理はこの時を待っていた。本音を言えば、もう少し多くの兵を引き連れて出陣して欲しかったのだが、章理達にはこの次がない以上、ここで腰をあげるしかなかった。


 「左文忠!出航の準備をするんだ」


 「しかし、今は雨風が激しいのですが……」


 ここ数日、南判島付近では風雨が激しく、波も高い。出航するには危険をはらんでいた。


 「だからこそだ。雨と風が私達の動きを隠してくれる。これほどの天の恵みがあるだろうか」


 「しかし……」


 「出撃だ!」


 なおも抗弁しようとする左文忠の言葉を章理は遮った。今は躊躇っている時ではない。


 章理軍は五百名の兵士を五隻の軍船に乗せて出航した。副将として左文忠を従え、左堅には南判島の守りを任せることにした。


 風雨は激しく、軍船は常に上下に大きく揺れ動いたが、船頭達は絶対に送り届けると約束してくれた。


 この船団で運ばれている将兵のほとんどは、南鑑近郊に上陸するだろうと思っていた。それが常識的な判断であるし、それがために章海は南部に大軍を送ったのである。しかし、船団は南東へは向かわず、北上しているようであった。


 『何処へ行くのか?』


 将兵達は不安に思いつつも、ある可能性に行きついた。


 『ひょっとして新判に上陸するつもりか……』


 新判は、中部になる印国最大の港町である。新判ならば軍事拠点になりえるし、鑑京にも近い。あり得ぬことではなかった。


 風雨が収まらぬうちに、船団は新判の桟橋に接舷した。激しい風雨が続いていたということもあって、多くの商船が桟橋に連なっていたが、そこに割り込むようにして強引に接舷した。


 章理達にとって幸いであったのは、新判にはほとんど戦力と呼べるものが章海側になかったことであった。わずかな守備兵があるだけで、彼らは章理軍の船団が突っ込んでくると、逃げ出すか降伏を申し出た。こうして章理は無血をもって新判を占拠することができた。


 「この風雨で船を損なうこともなく、無血で新判を取れた。まさに章理様の徳を天が認めてくださった」


 左文忠は興奮して言ったが、章理はそこまで熱くなれなかった。寧ろ単に運が良かっただけだと思っている。


 『油断こそ禁物。冷徹に作戦を進めなければならない』


 これも甲朱関に教わったことであった。まだ最終的な勝利を得ていない以上、局地的な勝利で一喜一憂している場合ではなかった。


 「文忠。すぐに兵を進めます。目指すは鑑京です」


 は、はい、と気を引きしける様に左文忠は返事した。




 章理軍はわずかばかりの守備用の兵士を新判に残し、一気に鑑京を目指した。


 「急げ!南に展開している敵軍が戻ってくる前に鑑京を落とす」


 絶望的な戦いであったが、章理が最終的に勝利するには二つだけ方法があった。ひとつは鑑京を制圧すること。もう一つは章海を倒すことである。どちらにしろ章海には鑑京から出撃してもらわなければならない。


 『こちらは小勢。章海は出撃してくる』


 これも博打であった。もし章海が章理を侮らず、鑑京に籠ってしまっては、鑑京を攻めあぐねる章理軍は引き返してきた銀芳軍に後背を襲われてしまう。しかし、章海が出撃してくれば、戦場で彼を倒すこともできるし、隙をついて鑑京を制圧することも可能である。


 新判を制圧したのも博打であったが、章海が出撃するかどうかも博打である。だが、後者の博打については章理には確信があった。


 『叔父上は出撃してくる』


 自分の才能に絶対的な自信を持っている章海なら必ず出撃し、完膚なきまでに叛する者を討伐してくるだろう。


 『すべて叔父上の裏をかく。裏をかき続けなければ、叔父上には勝てない』


 本来であるならば、もう少しじっくりと腰を据えてこちらの勢力が増えるのを待つか、そうなるように工作すべきであっただろう。しかし、章理はその常套手段を捨てた。捨てることにより、章海を焦らせ、自滅的な失敗を誘引させてこそ勝利の可能性が広がると章理は考えていた。


 風雨はまだ止んでいなかった。章理は自ら騎乗の人となり、軍勢の先頭に立って一路、鑑京を目指した。

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