寂寞の海~24~

 章友が国主になったことほど、印国の閣僚を不安にさせたことはなかった。幼少こそ聡明であると言われていたが、長じるとほおけた阿呆と目されており、先代国主である章穂の死に際に暴言を吐いたことも広く知れ渡っていた。


 単なる阿呆であるならば、閣僚達も章友をお飾りとして祭り上げておけばいいのだが、暴言を吐き散らすような狂犬であったならば、用心しなければならなかった。


 しかし、国主に就いてからの章友はほおけた阿呆のままであった。基本、朝議には顔を見せることなく、祐筆を兼任する秘書官である張鹿が持ってくる書類に印璽を押すだけの存在となっていた。だからといって勝手気ままな生活をするわけではなかった。多少美姫を侍らすようにはなったが、酒におぼれるようなこともなく、華美な生活で財政に負担をかけるようなこともなかった。


 『いやいや、あれはまだ仮の姿だ。いずれ本性を現すであろう』


 と危惧する声も閣僚の一部から聞こえたが、ひとまずはさほど害のない国主にならんとしていた。




 一方で明らかに不満を持つ者もいた。松顔である。反太子派であり、そのことを公言して憚らなかった彼は、閣僚にこそ残ったが、六官の卿からは外されていた。章友がそうさせたのか、あるいは張鹿の仕業なのか分からないが、兎も角も松顔は新国主の誕生によって割を食っていた。


 『私は国を思って言ったのに……それで冷遇されるようでは印国も終わりだ』


 松顔としてはこのまま冷遇されたままではいたくなかった。同志を集めて章友を排斥するか、あるいは一層のこと今の地位を捨ててしまうか。


 『だが、私は世を捨てさることができるほどお人よしではない』


 かつての章海のようにあっさりと世を捨てて隠遁するつもりはなかった。このまま世間的に死ぬのであれば、起死回生を意図すべきではないか。松顔は朝堂を出ると、決意を新たにした。


 「これは章海様ではありませんか」


 松顔は先を歩く章海に声をかけた。章海は章友が国主になってからは顧問官という地位を得ていた。章海のために作られた新たな地位であるが、六官の卿のように行政的な権限はなく、単なる相談役であった。


 「これは松顔殿。お顔が優れませんね」


 「はは。これは流石章海様。いや、新しい国主がお立ちになられてから何かと気分的に優れませんので」


 もし同志に引き入れるとするなら最有力候補は章海であろう。いや、同志というよりも章友を排斥した暁に国主になってもらうには章海しかいなかった。


 「ほう。ご心労のほど、お察しいたします」


 「心労というほどのことはありません。卿を離れて仕事としては楽なのですが、その……どうも新国主は私を嫌っておられるようで……」


 「ふむ……」


 章海は探るように松顔をじっと見た。老齢に入れども強い光彩をもった瞳は松顔であっても竦み上がってしまうほどであった。


 『これだ、これこそ国主に相応しい方の風貌だ』


 あの万事において抜けた、やる気を見せない章友など、やはり国主に相応しくない。溢れんばかりの才知を持ち合わせ、臣下を圧することができてこそ国主なのだ。松顔は武者震いを止められず、深い思慮など捨てて章海に切り出した。


 「どうでありましょう。章海様。今宵、我が邸宅でささやかな宴席を設けませんかな。印国の行く末など大いに語らいましょう」


 鋭い章海ならば章友に干された松顔から話を持ち掛けられた意味を明敏に察するであろう。その上で宴席の話に乗ってくればよし。乗ってこなければ松顔の政治生命は終わる。そのつもりで松顔は章海に声をかけた。


 「ほう。それは面白い。ぜひお邪魔しましょう」


 章海は即答した。その瞳の輝きは鈍く光っていた。




 章友の即位後、章理の身辺に変化はなかった。あるいは何かしらの地位が与えられるものと期待していたが、章友がそのような動きを示すことはなかった。章理にとっては多少それは不満であった。


 『友は私が政治に関わりたいというのは知っているだろうに』


 知ってはいるだろうが、普段の章友の言動からすると、姉のために自ら動くようなことはしないであろう。


 章季が泉国から帰ってきたのは、章理がわずかに抱えていた憤懣を発散できずにいた頃であった。そのような時期に泉公からの心温まる言葉を聞いて、章理は胸がときめく思いがした。


 「そうか、泉公が……」


 このときめきが恋だと言われれば、それでも構わなかった。印国で然るべき地位が得られないのであれば、泉公の妃になってもよいと思えるようになっていた。


 『いずれもしても先主の喪が明けてからの話か』


 しばらくはこの想いを我が胸にしまっておくことにした。


 「お疲れさまでした、季。ゆっくりと休んでくださいね」


 妹に優しく声をかけた章理は、自分の国で起ころうとしている変事に気が付かないでいた。

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