寂寞の海~18~

 章理と章季が鑑京に戻ってきた。章理からの報告を聞いているうちに、章穂は敏感に娘の心境の変化を察していた。


 『泉国で何があったのか……』


 端的に言えば、自分に対する刺々しさがなくなっていた。それどころか、章理は泉公―樹弘のことを手放しに褒め称え、時として顔を紅潮させていた。


 『これは……』


 泉公の人柄に接することで、女として彼に惚れたのではないだろうか。そうだとすれば、章穂にとってはまさに願ったり叶ったりであった。章穂は後になって密かに章季を呼んだ。


 「一体、理に何があったのです」


 これについて章季は正直であった。泉公への思慕と、印国で政治をしたいという願望の間で揺れ動いているようだと章季は言った。


 「ああ……」


 章穂は娘のために嘆いた。なまじ経綸の才があるだけに乙女としての恋心と才覚の間で揺れ動く章理のことが不憫であった。同時にさっさと泉公との結婚を承諾しない章理の政治に対する未練を恨めしく思った。


 実は章理と章季が留守にしている間、章穂はある決意を複数の閣僚に漏らしていた。それは、生前の今のうちに章友に国主の地位を譲ろうというものであった。しかし、閣僚達がこぞって反対した。


 『章穂様はまだご健在です。ここで生前に譲位されるとなれば、国民は章穂様の体調に何かあったと心配致しましょう』


 閣僚達は声を揃えて同じようなことを言ったが、要するに彼らは章友では国主として不安なのである。章穂はその懸念を払拭しようと、章友にある試験を課した。それは官吏の登用試験にも使われる問題を章友に解かしたのである。


 内容は各国に伝われる故事成語の内容を問うものであり、それほど難問と言えるものばかりではなく、『国辞』などを通読しておけばある程度解けるものばかりであった。しかも事前に問題内容と解答を章友に教えておいたのである。しかし、章友が提出してきた答案には子供のいたずら書きのような絵が描かれているだけであった。


 『この子は!』


 章穂は章友が生まれてきた初めて最愛の息子に怒りを覚えた。同時にこの子の知性を誰が奪ったのかと、天を呪いたくなった。章穂は閣僚達に弁明しようとしたが後の祭りであり、閣僚達が一読した答案にため息を落としたのは言うまでもなかった。


 『これでますます章理を国主にしようという動きが増してくるだろう。その前に章理を泉公に嫁がせてしまおう』


 もはや章理を嫁に出す機会は、これを逃せばないだろう。多少強引であっても、進めてしまうべきだろう。


 「季。泉公と理の婚儀を進めます。貴女は、章理を説得なさい」


 「お母様……」


 章季は悲しそうな顔をした。


 「章理が泉公に嫁げば貴女も泉公の下へ行くのですよ。貴女から見て泉公はどうでしたか?」


 章季もまた結婚というものをしたくないのだろうか。三人の子供中で一番従順な章季であれば、母である章穂が言えばただ頷くだけだと思っていたのだが、今の章季は母の命令を否定したい色が滲み出ていた。


 「良き方かと思います。ですが、私としては姉さんに無理強いしたくないのです」


 「季、貴女は優しいですね。でも、我ら公族は時として私情を捨てねばなりません。それはずっと言い続けてきたことではありませんか」


 章穂が言い聞かせると、章季は黙り込んだ。この子だけは、いつも母の言うことに従順で裏切らなかった。


 「いいですね、季。理を説得してください。そして貴女も泉公の妃となれば、女としての幸せを手に入れられるのですから」


 女の幸せ。章穂はそう言って、果たして自分は女としての幸せを手に入れたのだろうかと項垂れる章季を見て思った。

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