寂寞の海~15~

 泉春に滞在している間、章理は暇を見つけては街中に出て市井の様子を見聞していた。


 「季、この街の賑わいはどうだ。数年前まで内乱で荒廃していた国とは思えない」


 章理は妹を連れ出し、泉春の隅から隅まで歩き回った。どんな街はずれにある小さな商店でも豊富に品が並び、客が軒先を冷かしている。長きに渡り内乱や対外戦争のなかった印国であっても、このような光景は見られなかった。


 「姉さん、興奮しすぎですよ」


 章季は姉をたしなめながらも、やや嬉しかった。母から結婚話を聞かされてから章理が喜色を表すことのなかったので心配していたところであった。


 「すまない。しかし、ここで行われていることはどの国にとっても手本になる」


 章理は目を輝かせていた。その瞳の光に一点の曇りもないのだが、章理が嬉々として得た情報を活用する機会がないことを章季は知っていた。


 『姉さんが政治をすることはない……』


 才能という点でいえば、章理は政治を行う者として申し分ないだろう。政治の知識も豊富であるし、見た目の冷たさと裏腹に情に厚いところがあり、人望もある。だが、そうであるが故に、章友を国主にしたい章穂からすると姉は障害以外の何物でもなかった。


 時として章季は姉が気の毒になってくることがあった。章理の才気はまさに国主に相応しいものである。しかし、彼女は国主にはなれぬ宿命にある。せめて丞相か閣僚かと本人は思っているが、あの母は章理をそのような地位に置くことも危険であると判断するだろう。


 『一層のこと、泉公に嫁げばいいのでは?』


 章季は何度もそのことを口にしようとしていた。泉公は章季からみても魅力的な男性であった。ましてや泉公は女性の参政について寛大である。景朱麗を丞相にしているし、地方の行政官にも女性がいるという。泉公の妃になれば、泉国で参政をする機会も出てくるだろう。


 だが、それもまた叶わぬことであった。章理は印国で政治をしたいのだ。他国では駄目なのである。


 「ですが、姉さん。泉国と私達の国では事情が違いませんか?」


 「確かに、泉国は農業主体の産業構造だが、我が国は鉱産物の輸出入が主になっている。うん、国内需要を富ます政策というものを考えなければな」


 章理が政治に対するやる気を過熱させるほど、章季は姉の姿を見るのが辛くなっていた。




 泉春だけではなく、近郊の邑にも章理達は外出することがあった。その時は泉公も時間を作ってくれ、同行してくれた。


 「租税を低くしてひとまずは民衆を富ませることに専念しました。それで余剰生産された商品を国内の各地で売れるように関所や座を撤廃して流通を自由にしました」


 樹弘は自分が行ってきた政治、経済政策を丁寧に教えてくれた。樹弘とその閣僚達が推し進めてきた政策は、どれもが民衆に寄り添ったものであり、結果として国を富ますことに成功していた。政治にあまり詳しくない章季からしても、樹弘という国主が行ってきた政道がいかに優れているか十分理解できた。


 「農作物だけではなかなか産業が成り立たないので、織物や工芸品などにも振興政策を行いました。それと娼館や賭場を生業をしていた者達に廃業することを条件に資金を貸し付けて別の商売を始めることを奨励しました」


 「なるほど。それで国都だけではなく、地方にも経済政策のよい波が波及しているのですね」


 章理は樹弘の傍らで熱心に語られる経済政策に耳を傾けていた。それはまるで師と弟子のようであり、男女の色っぽさは皆無であった。


 それでも姉さんが楽しいのであれば、と章季は思うのである。それはそれで泉国と印国の修好に繋がるし、婚姻だけが必ずしも両国の紐帯を強くするものではないだろう。


 『兄様が国主となり、姉さんが丞相となる。それのどこが母上は不服なのだろう』


 章穂が章友の国主としての地位を確固たるものにするため章理を嫁に出そうとしているのは、誰の目から見ても明らかであった。ただ章季からすると、そこまで章穂が章理のことを警戒しているのか理解できなかった。


 『姉さんは一度も国主になりたいと言ったことないのに』


 章理が章友を脅かす存在であるというのは章穂の妄想でしかない。その妄想に囚われている限り、章穂と章理の和解はありえないだろう。そして根源的な問題として、章友の資質である。章友こそ太子としてしっかりとしていれば、このような問題は起きなかったのだ。


 章季にとって兄としての章友は影の薄い存在であった。章季が物心ついた頃から章友は部屋に閉じこもりきりで、ろくに話をしたこともなかった。兄がどうしてあのようなのか、もはやそれを論じても仕方のないことかもしれないが、章季にとってはそれが堪らなく不満であった。


 「どうした、季。そんな怖い顔をして」


 不意に姉が顔を覗き込んできた。


 「いえ……そんな怖い顔をしておりました?」


 「していたな。折角の美人が台無しだぞ」


 章理は楽しそうに笑っていた。こんな笑顔の姉を見たのは久しぶりであった。この笑顔が続くのも泉国にいる間だけなのだろうと思うと、章季の心境としては複雑であった。

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