寂寞の海~13~
景蒼葉とのやり取りがあった後、景朱麗は平静を装うことに努めた。最初の数日はなんとか上手くいっていたが、印国からの書状が届いたと知ると、胸がざわついた。
「祝賀式典来訪に対する答礼の使者が来るらしい。そんなことをしなくてもいいのにね」
樹弘は書状を景朱麗に回した。そこには婚儀のことなぞ一言も書かれていなかったので、景朱麗はひとまず安心した。
「いかが致しましょう、主上」
「追い返すわけにもいかないでしょうから、ちゃんとお迎えしましょう。中務卿と相談して失礼のないように準備をしておいてください」
「承知しました」
「さて、黄鈴と景弱相手に少し体を動かすかな」
樹弘がそう言って立ち上がった。改めて意識して樹弘の全身を見てみると、初めて会った時よりも、大人びていて男らしくなっているような気がした。出会って十年は経過しているのだから当たり前なのだが、そんな当たり前のことすら今の景朱麗にはひどく新鮮であった。
『当たり前か……。私も三十歳を過ぎたのだからな』
一般的な女性が婚儀する年齢はとうに過ぎていた。景朱麗自身、そのようなことを気にしたことなく、周りも景朱麗に婚儀を薦めることもなかった。それでよしとしていたし、丞相として生きるなら一生独身であっても構わないと思っていた。
『それなのに……』
婚儀の話でこうも揺り動かされるとは思っていなかった。これ以上は平静を装うのが無理そうであった。
「主上は、印国との婚儀をどうお考えですか?」
景朱麗は思い切って聞いてみた。
「印公は積極的だけどね。でも、当の本人達がその気じゃないからなぁ」
本人達、と言うからには、そこには樹弘も入っているのだろう。景朱麗はほっとした。
『私は何をほっとしているのだろう……』
そう思いつつも、景朱麗はやや足取りを軽くして部屋から下がった。
一か月後、印国からの使者が洛鵬に到着したという報せが届いた。出迎えには有職故実に精通している備峰を送っているからまず安心であった。
「備峰であればどのような使者であっても対応してくれるだろう」
最初に印公から答礼についての書状を貰った時、使者が誰であるか名前が記されていなかった。樹弘は単純に名前を書き忘れたのか、それともそれほどの高官ではないと思っていた。だからどのような人物であっても冷静に対処できる備峰を出迎えとして派遣したのであった。
だが、答礼の使者を案内している備峰からもたらされた早文で、使者が章理と章季であることを知ることになった。
「印公。懲りない人だ」
樹弘が印国を訪問したことに対する答礼の使者である。樹弘が一週間ほど滞在したのだから、同等の日数を泉春で過ごしてもらわねばならず、公女という賓客である以上、樹弘がもてなさなければならなかった。自然と章理と接触する機会も増えてくるだろう。
「やれやれ。章理さんは僕に会いたくなかろうが、それでもわざわざ来るんだからな。どういうつもりやら」
あれだけ樹弘との婚姻を嫌がっていた章理がわざわざ答礼の使者としてやってくるのだから何か意味があるのだと思った。それとも単に母親から押し付けられて渋々とやって来たのかもしれない。樹弘としてはその辺を見極めて対応しなければならなかった。
答礼の使者が章理であると知って最も驚き警戒をしたのは景朱麗であった。樹弘から章理が婚儀について拒否していると聞いていたので、何故わざわざやってきたのか不思議であり不審であった。
『ひょっとして気が変わったのか……』
あの主上のことを嫌いになる女性などいるはずがない、という思考が景朱麗にはあった。もし章理が婚儀に乗る気になれば、樹弘はどう対応するのだろうか。景朱麗は懊悩とするばかりでだった。
それでも自らに課せられた職務を怠ることなく遂行するのが景朱麗という女性であった。章理達が泉春近郊まで来たと知ると、自ら門前に出て迎えた。
景朱麗は数十名の官吏を従えて門前で待った。五乗の馬車が向かってくるのが見えた。馬車が近づくにつれ、景朱麗は緊張してきた。
『何を緊張しているのだ、私は』
自分に喝を入れた景朱麗の前で馬車が止まった。扉が開き、ひとりの女性が降りてきた。長身のすらりとした黒髪の女性であった。樹弘の話ではきつい印象の女性だということだが、景朱麗はそのよういは感じなかった。
「章理様ですね。お待ちしておりました、丞相の景朱麗です」
景朱麗が容儀を正して挨拶をすると、章理も拝手してこれに応じた。
「章理です。この度は印公の使者として答礼に参りました」
章理は非常に友好的であり、微笑みを絶やすことがなかった。景朱麗は複雑な心境のまま、章理を泉春へと案内した。
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