漂泊の翼~71~
摂を出発した楽乗軍は、ほぼ無抵抗のまま翼国北部に進出することができた。それどことか邑の近くを通る度に若者達が従軍を申し出て、楽乗軍は巨大になる一方であった。
「これは労せずに許斗を得られそうですな」
胡旦は楽観を述べ、楽乗はそれを一応戒めたが、もはや楽乗を制止する者がいないのは確かであった。そこへ剛雛から尾城を得て楽宣施軍を敗走させたという報せが届けられた。
「剛雛はまさに天が我に与えた軍神ではないか。槍働きだけではなく、兵を進退させても負けることがない」
楽乗は称賛の言葉を惜しまなかった。この時、楽乗が悔しそうな胡旦の顔を見逃していなければ、翼国の歴史は今少し変わっていたであろう。しかし、吉報に楽乗は浮かれていて、誰しもがこの吉報に喜んでいるだろうと信じていた。
「乗様。喜びは後のこととして許斗へ急ぎましょう」
胡旦は喜ぶ楽乗に水を差すように言った。
「おお、そうだな」
冷静さを取り戻した楽乗は、軍をさらに北上させた。いよいよ許斗まで一舎という所まで来た時、先遣している斥候部隊からまたも喜ぶべき報告がもたらされた。
「許斗が門を開け、守将は降伏しております。すでに楽乗様を迎える準備をしております」
その報告を聞き、楽乗は殊更安堵した。許斗を攻める際、そこにいる楽仙と楽清が人質に取られるのではないかということであった。一応、阿習によって信頼がおける人物に保護してもらっているのだが、敵も窮地となれば意地でも楽仙達を探し出してその喉元に刃を突き付けるかもしれない。そういう意味では楽乗の心配は杞憂に終わった。
「罠の可能性もあります。私が先行してまいりましょう」
羽敏がそう言ったので、楽乗は許可した。
だが、そのような用心は無用のことであった。羽敏が到着する前に許斗の守将は自らに縄を打ち、許斗の外で楽乗の到着を待っていた。それを知った楽乗は許斗に急ぎ、守将と面会した。
「私は翼国の者であるし、貴殿もそうであろう。互いの間に争うことがなければ、片方が縄目の恥辱を受ける必要はない」
楽乗は自ら守将の縄を解いてやった。彼が感激したのは言うまでもなく、涙を流して楽乗軍に加わった。
さて、許斗に入った楽乗は劇的な再会を果たした。懐かしい許斗の政庁に入ると、百官が跪いて楽乗を迎えた。その先頭に年取った婦人と若き青年がいた。
「仙か……」
夫人は間違いなく楽仙であった。年老いたとはいえ、若い頃の楽仙の面影を十分に残していた。
「はい。あなた、お待ちしておりました」
楽仙は涙を流して、拝手した。楽乗はその手を除けて、楽仙の頬に手を添えた。
「苦労を掛けたな、仙。いや、そのような言葉で労わることができぬであろう。許して欲しい」
「いえ、あなたに比べれば、私の苦労など大したことはございません。本当に、よく……」
楽仙は嗚咽を漏らして泣いた。
「ということは、お前が清か?」
「はい。父上」
楽仙の隣にいた青年は息子の楽清であった。彼は泣いてこそいないが、物心ついて初めて対面する父の姿を懐かしそうに見つめていた。
「立派に育ったな。母をよく守ってきてくれた。これまで何もできなかった父であったが、これからは父らしいことをしてやるぞ」
「勿体ないお言葉です」
楽清は丁寧に辞儀した。楽仙の教育の賜物であろう。楽清は大人として恥ずかしくない育ち方をしているようだった。
「ところでお前達は誰に保護されていたのだ。阿習によると、信頼おける人物が保護していたと聞く。ぜひとも礼をしたい」
「ほほ。礼など無用です」
楽乗の背後で声がした。振り向くと、杖を頼りに立っている老人がいた。それが誰であるか、楽乗にはすぐに分かった。
「郭文か……」
「お懐かしゅうございます、乗様。よくお戻りになられました」
傅役である郭文は楽乗より当然年上であった。義父である龐克がすでに病死したと摂で聞いていたので、郭文もすでに鬼籍に入っているかもしれないと覚悟していた。
「年を取ったな、郭文」
「ほほ。それはお互い様でしょう。しかし、長生きはしてみるものですな。こうして生きて楽乗様と再会できたのですから」
杖をついていたが、郭文の声ははっきりとしていた。
「まったくそうだな。私もそうだ。諸国を漂泊している間、何度も苦難に遭い、何度心が折れかけたことか。しかし、こうして妻子や傅役と再会できたのだ。生きることこそ何よりもの勝利だ」
楽乗はようやく涙を流すことができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます