漂泊の翼~67~
その晩、楽乗は羽敏を自らの天幕に呼んだ。自分が出奔した後のことを聞きたかったからだ。
「楽乗様が翼国を出られたことは阿習殿より聞きました。阿習殿は何かと私達のために骨を折ってくれました」
「阿習はどうしているか?」
「阿習殿も弟と一緒に摂におります。乗様のご帰還を心待ちにしております」
楽乗は阿習の顔を思い浮かべた。きっと彼も年を取っていることだろう。
「楽宣施が国主になってからは許斗に対して何かしら圧政があったわけではありません。当然、許斗の人々に危害が加えられることもありませんでした」
「では、我が妻や子のことがどうなったか分かっているのか?」
「そちらも阿習殿がぬかりなくしております。お二人とも許斗におられます。ご安心ください」
「そうか……」
人心地つく思いであった。阿習にはその苦労に対して何か報いてやらねばならないだろう。
「それで羽陽様はいつ亡くなられたのだ?」
「五年程前です。亡くなられる前まで楽乗様の身を案じておりました」
「羽陽様が……」
羽陽に恋し、愛をもってあの魅力的な四肢を抱いたのは何年前のことだろうか。明瞭に思い出すには楽乗は年を取りすぎていた。きっと羽陽にしても、楽乗の身を案じたのは色恋のそれではなく、単に知人の安否を気にかけていたに過ぎないだろう。それでも楽乗からすれば嬉しいことであった。
「母が亡くなりましたので、我ら兄弟は住んでいた邑を離れることとしました。少しでも楽乗様のお役に立てることはないかと思って翼国を当てもなく彷徨っているうちに摂にたどり着いたのです。摂には羽氏を慕う者が多いので、我らとしても何かと都合がいいと思ったのです」
「ふむ。お前達が羽達の子息だと皆が知っているのに、どうして羽仁とやらが台頭したのだ」
「我らが主はあくまでも楽乗様だと思っております。自分達が主となることを拒んだのです」
「嬉しいことを言ってくれるじゃないか。ということは、摂にも私を慕う者はおるのだな」
「この国で楽乗様の徳を知らぬ者はおりません。摂が叛いたのは楽氏に対してではなく、楽宣施であったからです」
「私は不明であったな。翼国でこれほど私を渇望している者達がいるとは。もう少し早く翼国に戻るべきであったか」
「後悔なさっても仕方ありません。今、楽乗様がこうして翼国におられるのです。それでよろしいではないでしょうか」
「そうだな……」
羽敏の言うとおりなのだろう。楽乗には成さねばならぬことがあるからこそ今まで生きてきて、こうしうて翼国に帰ってきたのである。それ以上のことを考えるのは後のこととしようと思った。
楽乗軍は一路、摂を目指した。すでに大勢力となった楽乗軍はさらに志願兵を吸収していった。これに恐れをなしたのは羽仁であった。
『あれだけの人数で勝てるはずがない』
羽仁は己の迂闊さを呪った。羽仁は羽禁の息子でも何でもない。単なる野盗の頭目に過ぎず、摂が蜂起した時に手下達と一緒に残党軍の中に潜り込んだだけであった。たまたま羽仁達の集団が残党軍の中で最大勢力となったため、発言力が増し、箔をつけるために羽禁の息子を名乗っただけであった。
「今すぐ真相を話して許しを請うべきではないか?」
羽仁は気弱気に手下達に話した。
「何を言う!お前は羽禁の息子、だからこそ好き勝手できたんだ。今更嘘だと言ったら、俺達は殺されちまうぞ」
手下達は羽仁の軟弱姿勢をなじった。ここで引けば、羽仁は手下達に殺されるであろう。それでも楽乗の大軍と戦う気力が湧かない羽仁が明確な判断を下せないうちに、楽乗軍は摂を包囲せんとしていた。すると火種は羽仁の足元から起こった。
「羽仁などは所詮偽物だ!楽乗様こそ翼国の国主に相応しい」
摂に残っていた羽綜が他の残党軍兵士を焚き付け、羽仁を追い出すべく行動を起こした。羽綜達は羽仁達が占拠していた摂の政庁を攻め、ついには羽仁を追放したのである。こうして摂は無血のうちに開城したのであった。
摂を遠巻きにして包囲していた楽乗軍は、摂の門扉が開かれるのを見て歓声をあげた。
「羽綜がやってくれたようだな」
「そのようです」
羽敏と並んでその様子を見ていた楽乗は馬を進めた。摂からも騎馬が二騎、こちらにやってくるのが見えた。
「楽乗様!」
「羽綜、阿習!」
紛れもなく向かってくるのは羽綜と阿習であった。二人とも随分と姿が変わっているが、間違いなく羽綜と阿習であった。
「楽乗様、この日をどれほどお待ちしていたことか……」
「羽綜。よくぞ兄と共に待っていてくれた」
「はっ。ありがたき幸せでございます」
「それに阿習。二人を、そして我が妻と子をよく守ってくれた。礼を言うぞ」
「勿体ないお言葉です」
阿習の髪には随分と白いものが交じっていた。それだけの月日を感じさせていた。
「楽乗様。ひとまず摂へ。摂の民衆も楽乗様をお待ちです」
羽綜が先導して楽乗は摂に入った。
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