漂泊の翼~65~

 陳逸の謀略は条国、翼国で確実に芽吹いた。条国において斎公とその周辺が俄かに活気付いてきた。条公はそれを注視して対応に追われて、静国を攻めるどころではなくなっていた。条国で目立った戦乱が起こることはなかったが、条公の動きを封じるという点では成功した。


 一方の翼国である。こちらは条国よりも深刻な事態となっていた。翼国の中に摂という邑があった。場所としては界国に近く、界国へ向かう商人達が立ち寄ることがあるので、商業の拠点となっていた。そこに羽氏の残党達が集まっていたという話は先述した。これには理由があった。界国には中原の主である義王がおり、その方面に軍を出すというのは、義王に対して叛意ありと思われてしまうという恐怖心がどの国の国主にもあった。そのためそれぞれの国でも政争に敗れた者や、国主になれなかった公族などが界国の近くにある邑に住み着くというのはよくあることであった。


 楽宣施は、摂に羽氏の残党達が移り住んでいるというのは、情報として知ってはいた。しかし、界国への遠慮と、それほどの人数がいるわけではないと言われていたので、あえて放置していた。だが、楽宣施はそのことを後悔することになった。羽氏の残党が摂で武装蜂起したのである。


 もともと摂という邑は、楽氏と羽氏が争っていた時から羽氏の勢力下にあり、羽禁が死して羽氏が翼国の国主から引きずり降ろされても、羽氏に対して同情的であった。そのため羽氏の家臣団を積極的に受け入れて保護していた。彼らが集まっていくうちに次第に反楽氏の機運が醸成されていき、爆発する寸前になっていた


 その爆発物を発火させたのは、陳逸の謀略を比無忌が実行したというのもあるが、楽宣施が静国侵略に失敗したことも大きかった。


 『楽宣施とは大したことないのではないか』


 と羽氏の残党が思い始めていた。そこへ比無忌の密命を受けた間者が、彼らを焚きつけ、豊富な資金と武具を引き渡したのである。楽宣施が敗戦し、意気消沈としている最中、摂は蜂起して邑を治めていた官吏を追放したのである。楽宣施が激怒したのは言うまでもない。


 「摂の馬鹿どもにこの世の終わりを見せてやるわ!」


 楽宣施は激怒したのと同時に、これで敗戦の憂さを晴らせると密かにほくそ笑んだ。意気揚々とすぐに自ら軍を発して鎮圧に乗り出した。だが、結果は悲惨なものであった。


 楽宣施は摂を囲んで住民諸共蜂起した兵士を干乾にしようとした。野戦での戦いを好む楽宣施であったが、今回はその好むところを捨てた。


 『摂の連中は羽氏の残党をかばっていた。奴らも同罪だ。絶望的な苦しみを与えてやる』


 楽宣施は武器を手にして戦う者達だけではなく、住民までも苦しませ殺してしまおうと考えていた。しかし、摂の側には楽宣施の狙いを明敏に察した者達がいた。


 「楽宣施は我らだけではなく、我らを庇った住民も許さぬでしょう。そうなる前に外に出て戦うべきではないでしょうか」


 この意見に武装蜂起を起こした者達の首脳部は同意し、摂の外に出て楽宣施率いる軍を迎え撃った。


 「馬鹿め。自ら死にに来たか!住民どもは後で地獄を見せてやる」


 楽宣施が率いてきたのは約五千名。それに対して羽氏の残党は二千名あまり。数で圧倒していた楽宣施であったが、士気旺盛だったのは楽宣施ひとりだけであり、将兵には厭戦気分が蔓延していた。彼らからすると立て続けの戦争であり、しかも敵として攻めるのは同じ翼国の人間である。また内乱なのか、と絶望する思いであった。


 士気の低い楽宣施軍に士気旺盛な羽氏残党軍は真正面からぶつかった。羽氏残党軍はもはや怖いものなどなく、負ければ死しかないと覚悟が彼らの歩みを前にだけ進めさせた。こうなれば巧妙な戦術など大海の一滴でしかなかった。自ら声をからして兵の進退を行っていた楽宣施も、狂乱に等しい残党軍の突撃に成す術がなかった。


 「ひ、引けぇ!」


 楽宣施が撤退を命じた時には、すでに馬を広鳳の方に向けていた。羽氏残党軍は追撃こそできなかったが、奇跡的な勝利を得ることができた。




 羽氏残党軍が勝利したという報せは、すぐに静国にもたらされ、楽乗達は比無忌から教えられた。


 「これは好機というものではないでしょうか。翼国国内では楽宣施に対する不信感が高まっております。ここで楽乗殿が満を持して翼国に入れば、万民は歓呼して楽乗様を迎え入れるでしょう」


 比無忌はそう言ってくれたが、楽乗はやや慎重になっていた。羽氏残党による翼国内部のかく乱という謀略があまりにもうまくいきすぎたというのもあるし、ここですぐに楽乗が翼国に現れると、何やら火事場泥棒のような気がしてしまい、積極的に乗り出すことができなかった。


 ここで真っ先に声を上げたのは胡旦であった。


 「何を仰いますか!ここにいるものだけではありません。我が弟をはじめ、翼国を出て以来、楽乗様が翼国に戻るのは誰しもが願ったことではありませんか。今をおいて行わなけば、いつ行うと言うのですか?混乱のうちに翼国に入ることに非難する者もおりましょう。他国の力を借りることを潔しよしとしない者もおりましょう。しかし、そのような者達以上に楽乗様が翼国の国主とならんことを願っている者がいるのです。この際は空論の大義など捨て、実利をお取りください」


 胡旦の言に鬼気迫るものがあった。楽乗は大きく心動かされた。確かに、これまでにない絶好の好機であった。これを逃せば、次にいつこのような好機が訪れるか分からなかった。


 「分かった。胡旦の言うとおりだ。比無忌殿、ぜひとも静公にご協力をお願いしたいのだが」


 楽乗が言うと、比無忌は無言で頷き、すぐさま立ち上がった。

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