漂泊の翼~61~

 楽乗が指揮する部隊五千名は、静公と別れて北へ向かった。この部隊を実質的に指揮するのは静国の将軍である源慈。静公の叔父にあたる人物である。勇猛な将というよりも物腰柔らかで、他国の客将のような立場の楽乗にも非常に丁重であった。


 「私は一人前に年を取っておりますが、無学です。ぜひとも楽乗殿から戦について色々とご教授いただきたいです」


 血縁者であり、柔らかい性格の源慈を楽乗につけたのは静公の最大限の好意であった。彼が楽乗を慕っておれば、配下の兵士達も楽乗に従順になるだろうという静公の配慮である。


 「私こそよろしくお願い致します。静国の地理には詳しくございませんので」


 「ほほ。ならばお互い知恵を出し合いましょう。さすれば勝てましょう」


 源慈は詳細な白地図を示した。翼国から静国に侵入するには界国の地殻を通らねばならない。


 「界国との国境付近での戦闘はお互い避けたい所です。そうなると、国境から少し離れたここで敵を迎え撃ちましょう」


 楽乗が指し示めしたのは翼国から静国に繋がる細い街道が尽き、界国との国境線から離れる地点であった。


 「ふむ。街道を進むため長い隊列を組んでいた敵軍が陣形を糺すとするならそこでしょうな。流石はあの楽玄紹殿の薫陶を仰いだと言われる楽乗殿。素晴らしいですな」


 手放しの源慈の賛辞に楽乗は照れくさくなった。だが、源慈も同じように考えていたに違いなかった。


 「敵は陣形を糺すために進軍を止めるでしょう。そこを突いて一気に敵陣を乱してやりましょう」


 楽乗が考えた基本的な戦略は、静公が条国軍を撃破して駆けつけるまでの時間稼ぎである。どこかの邑に籠もるか、簡易的な要塞を築いて篭城してもよかったのだが、楽乗はその方針を採らないことにした。


 『私が前線に立てば宣施も翼国の将兵も動揺する』


 楽宣施は躍起になって自分を討とうとするだろうし、将兵達は少なからず動揺するであろう。そうなれば敵の混乱は増大すると楽乗は考えたのである。


 「守勢に立たず、あえて攻める。よろしいでしょう。我ら静国の気質にも叶っております」


 楽乗から作戦を聞かされた源慈は実に嬉しそうであった。




 翼国から出撃した楽宣施は意気揚々と軍馬を進めた。


 「やはり俺には戦場が似合う」


 静国軍がいくら精強であろうと、羽氏との長年の騒乱で鍛えられた翼国軍が負けるはずがない。ましてや自分が指揮をするのだ、と楽宣施は自信を覗かせていた。


 道中、翼国軍に合わせて条国軍が動き出したという情報を得た。高揚していた楽宣施は不機嫌になった。


 「火事場泥棒とは条公のことを言うのだ。人の上前をはねるのに躍起になる奴はろくな死に方をせんだろう」


 家臣の手前、笑って見せた楽宣施であったが、内心は焦っていた。条公と連携するつもりはないし、先に条国軍に勝利をさらわれたら、それこそ楽宣施の方が笑いものである。楽宣施は進軍を急がせた。


 界国との国境沿いの街道を抜け、翼国領内に侵入した楽宣施は一度軍を停止させた。そこで軍勢を整え、再度侵攻するつもりであった。同時に翼国軍の動きを得ようと斥候を放ったが、驚くべき情報がもたらされた。


 「兄上が静国軍を指揮しているだと!」


 「はい。白布に青色で『楽』と書かれた軍旗がありました。あれはまさしく楽乗様のものです」


 楽宣施は全身が震えた。楽乗が静国にいるということは知っていたが、まさか自分を迎撃するために出撃してくるとは思っていなかった。


 『兄を屠る好機ではないか!』


 そう考えてしまうのが楽宣施の君主としての卑しさであった。彼自身の都合だけを考え、楽乗の出現で自軍が動揺するということを思慮していなかった。


 「兄上は俺を倒して翼国の国主とならんとしているのだ。面白い!返り討ちにしてくれるわ!」


 自軍よりも圧倒的に少数と分かれば、討伐する以外に選択肢がなかった。楽宣施は進軍を命じた。


 「お待ちください。我が軍はまだ全軍が揃っておりません。まだ街道を進んでおる部隊もおります。今しばらくお待ちください」


 将軍の一人が意見した。楽宣施はかっと目を怒らせて、その将軍を睨んだ。


 「貴様!楽乗に味方するか!そんなに俺が国主であることが気に食わないのか!」


 「そのようなつもりで申したわけではありません……」


 「ふん!だったら黙って俺の命令に従っておればいいのだ」


 高圧的な言い方に多くの将軍達が眉をひそめた。それに気がつかぬのが楽宣施の人としての限界であった。

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