漂泊の翼~58~

 楽乗と剛雛は吉野に近づいた。今度はどのような歓迎を受けるかと期待半分、不安半分であったが、吉野の門前が見えたくると楽乗はただただ驚いた。門前に多くの人がいたのである。全員で百名ぐらいだろうか。整然と整列しているので、吉野に入ろうとしている人の列ではないだろう。


 「久可殿。あれは?」


 楽乗はたまらず馬車の窓を開けて久可に問うた。


 「言うまでもなく。楽乗様をお迎えするためのものです」


 「あれほどの人数でか?」


 「楽乗様は貴人であられます。これぐらい当然でありましょう」


 楽乗を乗せた馬車が止まった。整列していた人々はいずれも宮殿で着るような典礼衣装を着ていて、その先頭にいた若い男がすっと馬車に歩み寄ってきた。


 「お待ちしておりました、楽乗様。私、丞相を務めております比無忌と申します」


 ひどく若い男だと思った。まだ二十歳になったばかりか、少しばかり過ぎたぐらいだろうか。大国の丞相としてはあまりにも若かった。


 『静国の丞相は世襲ではないと聞く。そうなるとこの男は相当できる男なのだろう』


 そのような丞相を迎えに出すというのは、最高格の礼遇であった。楽乗の目頭は熱くなってきた。


 「出迎え、痛み入ります。楽乗です」


 「我が主がお待ちです。宮殿へお越し下さい」


 「比無忌殿。我が家臣達がすでに吉野に着いていると聞いておりますが……」


 「家臣の方々も宮殿におられますよ」


 楽乗にとって喜ぶべき情報であったが、比無忌の顔は冴えなかった。


 久可に代わって比無忌に先導されて宮殿に入り、静公と謁見することになった。


 謁見の間で国主の座に座わる静公も、比無忌と同じように若い男であった。この若い男達が静国という大国を動かしているのだろう。


 そして謁見の間には胡旦の姿もあった。楽乗は静公に挨拶するのも忘れ、胡旦と抱き合って再会を祝福した。


 「胡旦、よくぞ無事で!」


 「楽乗様も!」


 「苦労と心配をかけたな……で、胡演の姿が見えないのだが、伏せっているのか?」


 胡旦はぱっと顔を逸らした。楽乗は心臓から冷え込み、最悪の予感が過った。


 「演は……道中で亡くなりました」


 やはり、と思った瞬間、楽乗は床に伏して泣き叫んだ。


 「胡演!」


 場所を弁えず、人目を憚らず泣き腫らした。郭文が広鳳に戻ってから楽乗の知恵袋は胡演であった。楽乗は誰よりも一番胡演の進言を聞いてきた。その胡演がもはやこの世にいないのである。これほどの悲しみはなかった。


 「楽乗殿。落ち着かれよ」


 静公の優しげな声が響いた。悲しみから抜け出せない楽乗であったが、わずかに正気を取り戻すことはできた。


 「これは静公。失礼しました。過分な待遇で迎えていただいたにもかかわらず、礼もなく、場を弁えず……」


 「悲しみは当然のことであろう。貴殿の家臣達は胡演を連れて一生懸命逃げたようだが、その心労が祟ったようだ。心より同情致す」


 楽乗は無言で頭を下げて静公に感謝を表した。


 「それしても泉公とは無道なことをする。楽乗殿、我が国に入られた以上は、ご安心くだされ。決して悪いようにせぬ」


 静公の言葉はこの時の楽乗にとってどれほど心強かっただろうか。二人の交友はこれより始まり、楽乗が翼公となってからも続くのであった。




 一晩悲しみ続けて、ようやく心を落ち着かせた楽乗は胡旦達の逃避行について話を聞いた。


 「楽乗様が先に泉春を逃げ出した後、胡演を担ぎ、我々も脱出したのですが、途中で二名ほど斬り伏せられ、胡演も過酷な長旅に耐えきれず、貴輝という邑で亡くなりました」


 「そうか。お前達も苦労してきたのだな。だが、胡演は最後に大いなるものを残してくれた」


 「剛雛でございますか?」


 「そうだ。あの者がいなければ私は生きて吉野に辿り着けなかった」


 楽乗も自らの逃避行について詳細に語った。胡旦も涙しなければ聞くことができなかった。


 「主の困難は家臣の罪です。申し訳ありませんでした」


 「いや、もうそのことはいいのだ。それよりも剛雛の処遇についてだ。私は剛雛を車右にしようと思うのだが」


 胡旦がやや複雑そうに顔をしかめた。車右とは、兵車に乗る主君の右側に立って剣や槍を振るう兵士のことである。翼国ではすでに兵器としての兵車は廃れてしまったが、役職名だけは残った。要するに主君を最も身近で守る衛兵のことである。胡旦が複雑そうにしたのは、剛雛のような身分の低い者が車右という名誉ある役職につくことにあった。


 「胡旦が思っていることは分かる。しかし、今や単なる亡命者でしかない私にとっての車右など単なる肩書きでしかない。剛雛に報いてやるとすれば、もはやそれしかない」


 「そこまで仰るのなら……」


 胡旦はまだ納得していない様子であったが、楽乗は前言を翻すつもりはなかった。

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