漂泊の翼~51~

 話は楽乗から少し離れる。


 楽宣施は楽成を屠り、兄である楽乗を事実上翼国から追放して、為政者の座に居座り続けた。


 『これで泉国と戦ができる』


 国主になってようやく自分のやりたいことができると思い始めた矢先、翼国で旱魃が発生した。最初は小規模であったが、やがて翼国全土に広がっていき、楽乗が印国に渡った頃には例年の半分以下になっていた。


 これに対して楽宣施は義倉を解放する一方で、泉国との戦争のために溜め込んでいた兵糧をも配給しなければならない事態になり、とても戦争どころではなくなっていた。


 「なんとか凌いでおりますが、旱魃事態への対策が滞っております。このまま今年も作況高が落ちると数万人規模の餓死者を出してしまいます」


 丞相の厳虎は粛然と述べた。今の翼国の状況は、まさに想定外過ぎた。謀略の才能で丞相となった厳虎の能力を完全に超えた事態であった。


 「やむを得ないが、義父上から食料を借りよう」


 楽宣施は苦しげに言った。実は楽宣施の岳父である条公から兵糧援助の申し出があった。自尊心の強い楽宣施はこれを拒否し続けてきた。だが、いよいよ自国だけの力ではどうにもならぬ状況になっていた。


 楽宣施の命令により使者が条国へ急ぎ向かった。使者に接した条公は多少の不快感を感じた。


 『もっと早くに言ってくればよいものなのに。妙な意地を張りおって』


 条公は楽宣施の岳父として保護者のつもりであるし、国主としての先達として協力できるところは協力してやろうという気持ちでいた。その親心というべき親切心を無碍にされ続けてきたことに多少のしこりを感じていた。だが、そのことを口にして使者を困らせるような真似をしないのが条公であった。二つ返事で了承し、早速に食料を翼国に運ばせた。これで翼国はなんとか窮状を脱することができた。


 その二年後、条公が死去した。歴代条公の中でも英明の誉れ高い条公の後を継いだのは子の条智であった。以後、先代条公との区別をつけるため、新しい条公は条智と記す。


 条智は先代条公の長子であり、楽宣施に嫁いだ条亜は姉にあたる。楽宣施からすれば義弟となる。そのためであろうか、楽宣施は条智のことをやや下に見るふしがあった。


 実際に条智の即位式の時も、招待を受けた楽宣施は自分は参加せず、使者を送るに留めた。祝いの品も非常に少なく、条智は面白くない感情を得ていた。


 『父上の言っていたとおり、翼公には情が欠けている。先輩国主としての温かみがない』


 条智にも不遜なところがあった。楽宣施とは先代条公の力を得て国主になれた男ではないか。しかも数年前には食糧援助も受けていて、条国には足を向けて眠れないのではないか。そういう思いが条智にもあり、翼国と条国の関係は次第に冷えていった。


 両国の関係が決定的に決裂したのは、さらにその二年後、義王朝五一五年のことであった。


 この年、条国で大規模な水害があり、作況高が前年を大きく落ち込むことになった。当面は義倉の解放で全国的な飢饉を防げるであろうが、作況高が数年落ち込むことが予測された。そこで条智は翼国に食料の援助を申し出たのである。しかし、楽宣施はこれを拒否した。


 「不作と言っても我が国が体験したほどではないではないか。私はぎりぎりの段階まで他国を頼らなかったぞ。新しい条国は随分と甘えたことを言う」


 楽宣施は条智の使者に対して実際にそのように言い放った。帰ってきた使者の報告を聞いて条智が激怒したのは言うまでもなかった。


 「なんたる男だ!我が条国は食料を援助したにも関わらず、立場が逆になると援助をせぬとは!恩を仇で返すとはまさにこのことだ!」


 戦争だ、と条智は叫んだが、延臣が宥めたため条智も冷静さを取り戻した。


 条智は内政に専念し、なんとかして危機を乗り切ったが、楽宣施に対する恨みは忘れることができず、両国の間はさらに冷えていった。




 さらに翼国と条国の関係が悪化する事態が起こった。楽宣施が妻である条亜を離縁したのである。それほど大きな理由があるわけではないが、条智が条公となって条国との関係が悪くなったのが最大の理由であろう。要するに楽宣施としては、もう条国の後ろ盾など要らぬ、という意思表示であった。


 もう一つの理由として、楽宣施と条亜の間に子がいなかったことがある。これについては、できなかったのか、それとも作ることもしなかったのか、どちらであったかは判然としていない。しかし、気の強い条亜と同じ閨に入るのを楽宣施が嫌がったという噂が広鳳の市井では囁かれた。


 その噂を裏付けるわけではないが、離縁を宣告された条亜は、嘆き悲しむこともなく淡々としていたという。


 「条西に命を狙われた時は私が助け、我が故国が助けたというのに、その恩を微塵も感じさせない男など、これから先のことも知れておりましょう。逆に清々しているぐらいです」


 条国へ戻る最中、条亜はそう従者に漏らしたという。条亜の気分がよく表れていた。

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