漂泊の翼~49~

 印国の月日がさらに流れた。すでに七年。楽乗は四十を過ぎていた。


 この年、印公はいよいよ重篤となった。もはや政務などできる状態ではなく、太子である章平が代行していた。これを手助けして支えたのが章海であった。この時、章海は若干十二歳でしかない。それにも関わらず、章海の働きは傍から見ていても見事なものであった。


 『章海はきちんと民のための政治を理解している』


 章海の口から出る政治的な発言は、いずれも的を射ており、民に対する温かみがあった。口添えこそしていないが、楽乗が歳月をかけて教えてきたことが章海の中に活かされていた。


 特に楽乗が評価したのは義倉の数を増やしたことであった。


 「中原では三十年に一度程度の周期で飢饉が訪れる。その三十年目が近い将来を訪れる。我が国にも義倉はあるが、印国全員を食べさすにはとても足りない。五年のうちに二倍に増やしたい」


 後に聞いた話では、朝議で章海がそう発言した時、延臣達は露骨に反発したらしい。彼らも別に民衆を思いやる精神に欠けていたわけではない。義倉の必要性も認めているが、来るかどうかも分からない飢饉のために国家予算を使うことに難色を示したのである。


 「それだけではない。干害と治水の事業も今以上に行わねばならない。民を飢えさせぬようにすることが政治ではないか」


 とても十二歳の少年から出された言葉ではないだろう。延臣達が色を失ったのは言うまでもないだろう。


 「しかし、起きるかどうか分からない飢饉のためにそこまで準備なさらずとも……」


 「飢饉に周期があるのは、歴史書を熟読すれば分かることだ。それに飢饉が起こらねばそれでよし。だが、起こった時には準備をしていなければ手を遅れになるのだぞ」


 結局、この件は章海が章平に頷かせて押し切った。多少の強引さはあったが、政治的な力技も兼ね備えた章海の手腕に楽乗は舌を巻く思いであった。


 しかし、このことが新たな火種となった。その朝議があった数日後、楽乗は章平から呼び出された。


 「先生、私が国主となったあかつきにはぜひ丞相になって欲しい」


 章平は手を付かんばかりに懇願してきた。何を言い出したのかと思っていると、章平は涙ながらに訴えてきた。


 「朝議のことは聞いておりましょう。海は私よりも賢いし、言葉に力を持っている。それをまざまざと見せ付けられた。とても私が敵う相手ではない。できれば国主の座を譲りたいが、父上の意思を無碍にはできない。だから先生が丞相となって、私を助けて欲しいのだ」


 「平様をお助けするのは海様でありべきでしょう。現に海様は見事なまでに支えておりましょう」


 それが章平の心を鬱屈とさせているのは充分に承知していた。兄として優秀な弟と何かと比較されるわけだから息が詰まるどころではないだろう。それでもそれを感受するのが将来国主となる章平に課された使命であった。


 「それが堪らぬほど嫌なのだ。私は弟が恐ろしい!」


 間違いなく章平の本音であろう。章平は十六歳。妬みを忘れ、寛容さを持ち合わせるほどの年齢に達していなかった。


 「平様。それを耐え忍ぶのが国主となるお方です。海様は稀に見る秀才。寛容なお心で海様をお使いください」


 楽乗としてはそうとしか言い様がなかった。章海が変心したように、章平も今の心境から変わってもらう他なかった。


 「私にはそのようになる自信はない。先生が支えてくれなければ困る!」


 まるで駄々っ子であった。楽乗はここまで強固な意思を見せる章平を始めて見たような気がした。




 それからというもの楽乗の滞在する屋敷が厳重に警護されるようになった。章平が命じたことで、楽乗がどこへも行かないように見張らせているのである。


 「これは妙なことになりましたな。さっさと丞相となられればよかったのです」


 胡演は茶を啜りながら窓の外を眺めていた。屋敷の周りを絶えず十数名の兵士が巡回していた。


 「暢気なことを言うな。乗様がお困りであろう」


 胡旦が弟に詰め寄ったが、胡演はどこ吹く風とばかりに茶を飲み干した。


 「そう言いますがね、兄上。乗様が印国に骨を埋める気であるならば、丞相となられるべきでしょう。もしそのおつもりがないのなら、早々に立ち去るべきです。乗様は印国の公室に深く関わりすぎました」


 胡演の評価は最もであろう。楽乗の優柔不断こそが今の事態を招いてしまった。しかし、楽乗からしても、有効な選択肢がなかったことも事実である。


 「胡演。仮に印国を去るとして、次はどこへ行くのだ」


 「近いというのなら泉国でしょう。そこから静国へ向かう他ないでしょう」


 「泉国か……」


 気乗りしなかった。翼国にとって最も仲が悪いのは泉国であった。楽乗が乗り込んだところで、まず歓迎はされないだろう。


 楽乗主従が行く末について悩みつつ、名答が出せずにしていると、召使が訪問者があることを告げた。誰かと思いつつ、部屋に通すと、あまりにも意外な人物であった。


 「これは先生。それに皆様。お困りのようですね」


 訪問者は章海であった。

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