漂泊の翼~47~

 印公の嫡子、章平はこの年九歳。楽乗の息子である楽清と同じ年頃であった。


 『清は元気であろうか……』


 許斗に残った楽仙と楽清には書状ひとつ出していなかった。もし書状が楽宣施の手に渡れば、楽乗の居場所が露見するだけではなく、連絡を取り合っていたとして楽仙達にも危害が加えられるかもしれない。その危険性を避けるため連絡は一切絶っていた。


 『今は章平を我が子と思って傅役を務めるか』


 章平は聞き分けのいい真面目な男児であった。突然現れた異邦人が傅役になっても不満らしきことを漏らさず、楽乗に対して従順であった。物事を教える楽乗としても非常に楽な相手ではあったが、一方で知性についてはやや物足りなさを感じていた。


 『足りぬということではないが、極めて凡庸。これでは人の意見に左右される人間になる』


 寧ろ、章平の弟である章海の方が利発であった。章海は五歳。利発というよりもすでに『国辞』を誦じており、その言動は五歳児のそれではなかった。


 章海には傅役はいなかった。いるにはいたが、章海が随分と癖のある男児らしく、何度も傅役が辞めたり辞めさせられたりしていた。そのため楽乗は章海の存在を多少警戒していたのだが、章海の方は楽乗に悪い印象を持っていないようであり、兄に混じって楽乗から教えを受けることもあった。


 『羽敏や羽綜もこういう感じで育ってくれれば……』


 羽陽の子である二人の兄弟は、楽清と並んで楽乗にとって大切な子であった。いずれ羽兄弟こそ楽清を助ける存在なると願っており、章海も将来は兄を助ける存在になって欲しいと思った。


 やがて楽乗は印公に請われ、章海の傅役も務めることになった。




 印国での日々は、穏やかながらも忙しいものであった。章兄弟に勉学を教えたり、狩りに連れ出したりと二人の公子の傅役を務め続けた。二人とも健やかに着実の成長してくれたが、楽乗が傅役についてから二年後には勉学という点では章海は兄の章平を遥かに凌ぐようになっていた。


 『この子は末恐ろしい男になるかもしれない』


 楽乗は大きな期待とわずかな恐怖を章海という少年に感じた。章海が自分の才能と立場を理解しつつ、兄を支える存在になれば印国は今以上に栄えるであろう。しかし、章海が立場以上の地位を欲するか、章平が章海の才能に嫉妬すれば、印国は騒乱の国へと転落するであろう。楽乗は一度その懸念を印公に伝えた。


 「流石は聡明と言われた楽乗殿だ。よき所に目をつけられた」


 印公も同じ懸念を抱いていたようである。楽乗は印公から国主としての顔と父親としての顔を見たような気がした。


 「だからこそ楽乗殿に平の傅役をお願いしたのだ。ひとつは海に及ばぬまでも、平に相応の知性を植えつけてやって欲しい。もうひとつは平に自分自身を知り、他者を正しく使う術を学んで欲しいのだ」


 「他者を使う術?」


 「平は良い子だ。良い子過ぎる。だから海の才能に嫉妬すらしていない。少年期でそのような達観した物の見方をしていては、人としての大成しない。他者に嫉妬することで自己を研鑽し、成長する。それで敵わなければ、才能ある者を使うことを覚える。平にはそういう人物になってもらいたいのだ」


 「私にその教導をしろと仰るのですか?」


 「楽乗殿ならばできよう。実はな、楽乗殿を受け入れようと決心したのは、胡演殿のおかげなのだ」


 「胡演ですか?」


 「楽乗殿の亡命を受け入れて欲しいと謁見を求めてきた時、あの者は朗々と楽乗殿の事績を述べたのだ。尾城や広鳳での働き。許斗での治績。龍国において民衆に教育を行っていたこと。それらはまさに自己の才能を自覚し、人を使うことにも長けている証拠だ。そしてなによりも胡演殿が声を枯らして事績を述べたことこそ、楽乗殿が家臣から愛され敬されている証。私はその証こそ大切にしたい」


 楽乗は自分が褒められ、胡演が褒められて照れくさかった。そして、自分達のことを高く評価してくれた印公の期待に添えたいと思った。


 印公との会談を終え、部屋を辞して宮殿内を歩いていると、章海に出くわした。


 「これは先生。遅くまでお疲れ様です」


 章海は一人であった。書物を片手に、七歳とは思えない如才のない挨拶をしてきた。


 「海様こそ、夜遅くに何をされていたのですか?」


 「本を読んでおりました」


 章海は本の表紙を見せてくれた。楽乗でも進んで読もうとは思わない難しい政治書であった。


 「もうそんなものを読んでいるのですか?」


 「ええ。難しいけど、このぐらいでないと物足りないので」


 楽乗は何やら薄気味悪いものを感じた。年相応の言動をしない子供ほど目を背けたくなるものはなかった。


 「海様、もう眠りなさい。寝ることも大切なことです」


 「はい、先生」


 章海は嬉しそうであった。踵を返すと一人で部屋のある方に歩いていった。


 『書庫と章海の部屋は向こうのはず……』


 章海が書庫であの書物を手にして自室に戻るにしても、この廊下を通るはずがない。よもやとは思うが、章海は楽乗に褒めて欲しくてわざわざこの廊下を通ったのではないか。


 『まさかな……』


 楽乗は深く考えないようにした。睡魔がいらざる思考をさせていると思いたかった。

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