漂泊の翼~43~

 楽成は明らかに油断していた。政治、というよりも宮殿における権謀に長けていない楽成は、楽玄紹の実弟であるという自分の存在をあまりにも大きく見ていた。だから自分に近づきつつある危機にあまりにも鈍感であった。


 その日も楽成は、広鳳の近郊で禁軍の演習を視察していた。夕刻になり、演習が終わったので広鳳への帰路についていると、五人ほどの野盗風の男が突如襲ってきた。


 「私は禁軍将軍楽成だ。それを知っての狼藉か!」


 楽成は剣を抜いて吠えた。供回りは三人しかない。それでも禁軍の武人が野盗如きに負けないと高を括っていた。


 しかし、戦場における武技と人を殺すための技は必ずしも同じではなかった。野盗如き男達は一塊になって一人の武人を襲い、早業で瞬く間に命を奪うと、次の獲物へと飛び掛っていった。


 「化け物め!」


 一対一の戦いならば楽成の従兵達は負けなかっただろう。しかし、彼らは次々へと飢えた狼が如き者達に襲われていった。


 「おのれ!」


 残された楽成は、狼どもに相対した。老いたりとはいえ剣術には自信があった。だが、囲むようにして襲ってきた彼らに一太刀もあびせることができず、敵の短刀が胸をえぐった。


 「く……何者だ……ただの野盗ではあるまい」


 「左様。ですが、お知りになる必要はありますまい」


 もう亡くなるのですから、と以代は耳元で囁き、さらに奥へと短刀を刺し込んだ。




 翌日、楽成の死が楽宣施に報告された。


 「大叔父上が亡くなっただと?」


 「はい。演習の帰りに野盗に襲われたようです」


 「そうか」


 楽宣施はそう言って後任の禁軍将軍を任命しただけで、楽成を殺害した犯人を捜すことを命じることはなかった。これで当面の政敵を排除したはずの楽宣施と厳虎であったが、心が休まることはなかった。この主従にはまだ目の上のこぶというべき―特に楽宣施にとって―存在が遠くにあった。


 『大叔父の次は兄上だ』


 国主の地位を狙える人物はもはや楽乗しか残されていなかった。楽宣施にとって楽登は競争相手ではなかった。幼少の男児に何ができるか、という思いがあった。


 『登なんぞよりも兄上だ』


 楽宣施は楽乗のことを自分より才覚が劣っていると今でも思っている。しかし、客観的に見れば、尾城を陥落させたという実績を持ち、有力家臣である龐克の女婿でもある。国主候補として申し分がなかった。


 「幸いにして龐克はいまだ大人しくしている。兄上をより遠ざける方法はないか?」


 楽宣施は厳虎に諮問した。厳虎はややぞっとした。そのようなことを言ってくるということは、楽成暗殺の黒幕が自分であると楽宣施に知られているということなのではないだろうか。あるいは証拠がなくとも、洞察したのかもしれないし、何も知らずただ単に言っているだけなのかも知れない。兎も角も楽宣施の発言は厳虎を激しく揺さぶった。


 『私はこの方と一心同体だ……』


 厳虎はもはや楽宣施とは不可分であった。善処いたしましょう、と答えるしかなかった。




 楽乗が龍国に来て三年経過した。この三年間、あるいはこれまでの楽乗の生活の中で最も平穏であったかもしれなかった。龍国は表層的には楽乗を優遇し、多少の贅沢ができるほどの資金を下賜してくれた。楽乗はその好意に甘えながらも、時として宮殿に出向き、何か手伝えることはないかと閣僚達に面談を申し込んでも、会おうともしなかった。


 『よいよい。乗様は亡命者の身。ゆるりと過ごされよ』


 返ってくる閣僚達の台詞は概ね同じようなものであった。


 「要するにここの奴らは政治をする気がないのだ」


 胡旦はばっさりと切り捨てた。楽乗としては恩人達に批判的なことは言いたくなかったが、胡旦の言っていることに間違いはないと思っていた。


 龍国の閣僚達は決して楽乗を疎んじているわけではない。彼らは本気で政治というものを放棄しているのである。貴人は政治などという仕事をするものではないと思っており、そういうものは自分より下の者達に任せて、自分達はそれを酒でも飲みながら管理監督できればいいと思っているのである。


 「乗様。よくこの国のことをご覧になっておいて下さい。この国では住民を搾取し、貴人達がそれを省みない生活を送っています。これは反面教師とすべきです」


 胡演の言葉は尤もであった。


 「私は亡命者の身だ。私達の生活の糧も、国民から搾取されて成り立っている。それを深く肝に銘じよう。もし、私が恩返しできる立場になったのなら、この国の民衆達のために何事かを成してあげたい」


 楽乗は宣言するように言った。楽乗はこのことをずっと覚えており、遥か後年、龍国と極国の和平締結という形で実現するのであった。

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