漂泊の翼~41~

 楽成によって条西が討たれた広鳳では、条国より楽宣施を迎えた。門前で居並ぶ延臣達を見下ろしながら馬車から降りた楽宣施は我が世の春の到来を実感した。


 『俺の時代が来た!』


 広鳳を着の身着のままで脱出したてからは、いつ帰られるのかという不安と腹立ちを感じる毎日であったが、まさかこれほどの短期間で戻れるとは思っていなかった。


 「厳虎。ご苦労であった。今回の件につき、その功労を認めてお前を丞相に任命する」


 「はっ!」


 厳虎は深々と叩頭した。余談ながら翼国において丞相という政治的地位が生まれたのはこの時だけであった。


 「大叔父上にも感謝せねばなりません。その功績に報いるために禁軍将軍の地位を授けます」


 楽宣施も大叔父である楽成には丁重であった。この大叔父が協力してくれたからこそ今があるということは、楽宣施でも十分に理解していた。


 「謹んで拝命いたします」


 楽成もまた我が子ほど離れた主君に恭しく接した。楽宣施が自分に対して年長への礼節を失っていないことと、主君としての威厳を持ち合わせていることに楽成は安堵した。これでようやく翼国は平穏になると、その場にいた者は誰しもが思っていた。




 翼国国主の座についた楽宣施は、政務に対して情熱を持って挑んだ。。政務を疎かにして、女色に走ったり、趣味に没頭することもなかった。その情熱が続き、為政者としての最低限の才能が備わっていれば、楽宣施はそれなりの君主として生を全うしてであろう。だが、楽宣施が政治に対して情熱を持ったのは、経世済民の志があったわけではなく、単に手に入れた権力を行使したかっただけであり、為政者としての才能も乏しかった。


 それでも三年間は為政者として可もなく不可もなく勤め上げた。徐々にではあるが、翼国の民心も落ち着き、政治的にも経済的にも安定していた。


 楽宣施の中で破綻が生じたのは、国主となって一年ほど過ぎたある日のことであった。政務を終えて茶を喫して一息ついていると、ふとあることに思い付いた。


 『そういえば神器はどうなっているのだろうか?』


 この三年間、政務に謀殺されて、考えることもなかったのだが、余裕が出てくると妙にそのことが気になってしまった。


 『父上もお爺様もそのようなことを言っていなかった……』


 ひょっとすれば楽玄紹も楽伝も神器に認められなかったのではないか。あるいは神器はすでに失われていたのではないか。その疑念に一種の恐怖を感じた楽宣施は、祭官を呼んだ。祭官に神器のことを問い質すと、


 「神器は地下にございます」


 祭官はあっさりと答えた。楽宣施は祭官に案内させたが、地下階に行き着くと、これよりは主上お一人でお願いいたします、と言われた。


 自分で蝋燭を手にして地下通路を進んでいくと、台座に弓が無造作に置かれていた。白木で作られたろくな装飾がない粗末な弓であった。


 「これが神器なのか?」


 疑わしかったが、兎も角も楽宣施は手にしてみた。真主であるならば弦を引くことができるという。楽宣施は弦を思い切り引いてみた。しかし、ぴんと張られた弦は、わずかにも引くことができなかった。


 「馬鹿な!」


 武勇に自信がある楽宣施は、どんな強弓でも引くことができた。その楽宣施が弦を引けないのである。


 「俺は真主ではないのか……」


 愕然とした。楽宣施はそっと神器を台座に戻し、足早に立ち去った。自分が神器に認められた真主ではない。そのことが楽宣施を激しく動揺させた。


 来た通路を戻ると、祭官が待っていた。祭官は黙って楽宣施から蝋燭を受けると、先を歩き出した。


 『何も聞かないのか……』


 普通ならば首尾を尋ねるものではないのだろうか。あるいはこの祭官はすべてを承知しているのではないか。祭官の沈黙が不気味で、楽宣施を疑心暗鬼にさせた。


 祭官と別れ、執務室に戻ると、楽宣施は衛兵を呼んだ。


 「あの祭官が俺に無礼を働いた。処刑せよ」


 楽宣施は口封じさせた。祭官が本当に真実を知っていたか定かではないが、そうしないと楽宣施の心は晴れなかった。


 神器に触れてからの楽宣施は焦り出していた。神器によって真主ではないとされた以上、楽宣施が国主であるためには国主としての実績を示さなければならなかった。しかもそれは大いな、誰しもが称賛するような実績でなければならなかった。楽宣施にとってそれは即ち、


 『戦をして領土を拡大せねばなるまい』


 というものであった。もともと内政的なことよりも軍事に自信がある楽宣施は外征こそが自分の株を上げる偉業であると信じていた。


 翼国は条、龍、泉、静、界と国境を接している。この中で攻めるとすれば、義王がいる界国と、婚姻関係にある条国は論外である。残る三つの中で静国は軍が精強なうえ、進軍するには界国の近くを通らねばならず、義王に邪念を持たれてしまうので避けるべきであろう。


 『そうなると龍と泉か』


 龍国は国家規模から考えても一番攻め滅ぼしやすいのだが、楽乗と楽登がいる。龍公が彼ら二人を奉戴して迎撃に出れば、翼国内に動揺が走るかもしれない。自己の国主としての基盤に自信が持てない以上、楽乗達を敵に回すのは得策ではない。そうなると泉国しか残っていなかった。


 「国内は安定し、国力も余裕が出てきた。そこで泉国を攻めようと思うのだが、どうだ?」


 朝議の席で楽宣施は前触れもなく突然切り出した。当然ながら何も知らされていない閣僚達は愕然と驚くばかりであった。


 「お待ちください、主上!」


 真先に声をあげたのは厳虎であった。楽宣施を国主とすることで丞相の地位を得たような策謀家ではあったが、政治家としては極めて常識人であった。楽宣施の外征発言がいかに馬鹿げているかぐらいは判断できた。


 「主上の御威光と御徳で国力は増しておりますが、外征などできるはずがありません。ましてや泉国となれば……」


 厳虎はちらりと楽成を見た。楽成は、今でこそ禁軍将軍として広鳳にいるが、以前は泉国を警戒するために東方にいた。楽成なら楽宣施の無謀な外征を止めてくれるだろうと厳虎は期待した。


 「戦をしろと仰るのなら慎んで拝命するだけです。勝てと仰るのなら死力を尽くすのが武人です。しかし、いかなる理由で泉国と戦をなさるのですか?」


 楽成の発言は楽宣施の未熟さを突いていた。戦をするには大義がいる。それを考えず、思慮の無さから戦争をしようとするのは大人としても国主としてもあまりにも未熟であった。


 楽宣施は顔を真っ赤にした。しかし、言い返すだけの言葉が見つからず、黙って席を立つだけであった。

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