漂泊の翼~37~

 胡兄弟が中心となって、龍国へ亡命する準備を始まった。この亡命は、秘密裏にかつ迅速に行わなければならなかった。


 許斗には楽乗を慕う民衆が多い。その楽乗が許斗を出て龍国へ亡命するとなると、追従したいと申し出る者が少ながらず現れることも考えられた。無辜の民衆を政争に巻き込みたくない楽乗からすれば、そのような事態はなんとしても避けたかった。


 「随員は三十名程度でいい。人選は胡演に任せる」


 「承知しましたが、ご家族はどうされますか?」


 胡演に問われ、楽乗は返答に窮した。家族についてはどうすべき判断付きかねていた。すでで楽乗と龐仙ー楽氏に嫁入りしたので現在は楽仙ーの間には子供がいた。楽清である。


 「清はまだ二歳だ。長旅は無理だろう」


 家族と別れるのは辛いが、楽仙と楽清は置いていくほかない。


 「では奥方様と楽清様とのお別れをお済ませください」


 私は準備がありますので、と胡演は淡々として立ち去っていった。胡演には別れを言うべき人はいないのだろうか、と思いつつ、楽乗は楽仙を呼んだ。


 すでに楽仙には刺客に襲撃されたことをは告げてある。そのため楽清を抱いて現れた楽仙はいつになく緊張した面持ちで楽乗の前に座った。


 「すでに知っておろうが、この間刺客に襲われた。このままいてはまたいつ襲われるか分からず、最悪の場合、戦になるかもしれない。私としてはそれを避けたいので、不本意ながら龍国へと亡命することにした」


 楽仙はじっと聞いていた。私達も連れて行ってください、と言われたらどうしようかと楽乗は危惧していたが、楽仙は楽乗の次の言葉を待っていた。


 「亡命であるから決して楽な旅にはならない。申し訳ないが、お前と清は置いていく。?克殿の娘であれば、主上や条西もう迂闊には手を出さないだろう。しばらく身を隠して待っていて欲しい。分かってくれ」


 「承知しております。女子供は足手纏いですものね」


 そう言い終えた楽仙はすっと涙を流した。陽気で気丈な女だと思っていたのだが、やはり別れの悲しみを超えることはできなかった。


 「すまん。阿習を残していく。何かあったら彼に相談してくれ」


 「はい……」


 素直に返答した楽仙はついに声を上げて泣いた。母の泣き声につられて楽清も泣き始めた。


 「泣くな。泣けばさらに悲しくなる」


 そう言いながらも楽乗も涙して、楽仙と楽清を掻き寄せて抱きしめた。




 楽仙と楽清との別れを終えた楽乗は、最後に阿習を呼んだ。楽乗は胡演と相談した結果、許斗に残していく人物として阿習を選んだ。阿習はこの人選に不服を鳴らし、自分も付いて行きたいと懇願したが、楽乗は説得した。


 『許斗と広鳳に精通していて、臨機応変に対応できるのはお前しかない』


 楽乗はそのようなことを何度も言い、ついには納得させた。阿習も覚悟を決めたのか、今ではもう不満を言うことはなかった。


 「阿習。お前を呼んだのは、我が家族や許斗の人々のことを頼むだけではない。羽陽様のことだ」


 羽陽の名前が出てきて、阿習の顔に緊張の色が走った。


 「今となっては主上や条西が羽陽様と子供達に手を出すとは思えないが、しっかりと見ていてやって欲しい。私が去れば、もう羽陽様達に気をかけてやれるのはお前しかいない」


 阿習からすれば、羽陽は旧主の血縁関係者とも言える。広鳳で羽陽を保護したのも、幾ばくかでも旧主筋への恩を返すという意義もあった。楽乗が今でも羽陽のことを気にかけていたこともそうだが、自分がこれから羽陽達を守らねばならないという使命感に感激して身を震わせた。


 「承知しました。必ずや乗様に縁のある方達をお守り致します」


 阿習は堅く誓って涙した。楽乗もその姿を見て、やはり涙を禁じ得なかった。




 楽乗が龍国へと亡命する。その話は剛雛の知るところになった。


 『是非ともお供したい』


 剛雛はそう強く思ったが、供回は絞られるであろうから、剛雛のような入りたての新人はそのようなことは叶わぬだろうと諦めていた。しかし、


 「陳逸と剛雛は楽乗様のお供に選ばれた。胡演様直々のお声掛だ」


 二人にそう告げる上役は面白くなさそうであった。彼からすると、先の刺客の件で部下である二人が功績を挙げて胡演から直々に声をかけられる存在になったのが愉快ではなかった。


 「勿論、生きて帰ってこれるか分からぬ旅となる。胡演様は断ってもよいと言っている。返答は明後日までだ」


 上役が去ると、剛雛と陳逸は顔を見合わせた。


 「どうするよ、剛雛」


 「私は楽乗様の護衛のためにここに来たのだから、付いていくつもりです」


 剛雛が迷いのない返答をすると、そうだよな、と陳逸は抜けた声で言った。


 「ここで許斗に残っても、どうにかなるってものじゃないしな。もとの穀潰しになるのは御免だ」


 俺も行くとするとか、とまるで散歩でも行くような調子で陳逸は言った。


 「返事は明後日でいいらしいから里周に戻って別れでも行ってきたらどうだ?あそこなら一泊ぐらいはできるだろう」


 陳逸はそう言ってくれたが、剛雛はかぶりを振った。


 「姉に決して戻らぬ覚悟で行けと言われましたので……」


 と言うと、陳逸は短く笑った。


 「お前の姉上はなかなかの女傑だな。生きて帰ってきたら嫁に迎えたいな」


 勿論冗談であろうが、もし二人が結婚すればきっと陳逸は尻に敷かれるであろう。その光景を想像すると、ふと笑いが込み上げてきた。


 「陳逸殿はどうするのです?故郷に帰られないのですか?」


 「故郷か……。帰ったところで白い目で見られ、いつ出ていくのかとくどく言われるだけだ」


 陳逸は乾いた声で力なく笑った。


 「俺の家は豪農でな。俺はその三男坊だ。長兄、次男ならいざ知らず、三男なんて他に養子に行かなければ、小作人みたいなもんだ。兄の命令に従って田畑を耕して小銭を稼ぐだけの存在。俺はそれが嫌で飛び出したのだ。幾ばくかの功名の光があるのなら、それにすがって生きていく方がましだ」


 陳逸には陳逸の苦悩があるのだろう。剛雛は陳逸に親しみを覚え始めた。


 「お互い戻らぬのなら、出発まで飲み明かそう。金ならこの前の報償金のあるからな」


 湿っぽい話はなしだと言わんばかりに陳逸は剛雛の背中を叩いた。剛雛も異存はなく、行きましょう、と陳逸の肩を叩いた。

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