漂泊の翼~31~

 楽宣施と条亜を取り逃がしたと知った楽伝はやはり赫怒した。


 「やはり宣施も余を殺す謀略に加わっていたのか!」


 こうなればもはや誰も手をつけられなかった。楽伝は、楽宣施と条亜を捕縛すべく、条国に向かって兵を出すと言い出したのである。これは事実上の条国への出兵であり、条国との戦争を招きかねない。延臣達は当然諫止すべきことであったが、楽伝の怒りを恐れ、誰も諫止できずにいた。


 「やはり私が申し上げるより他ない」


 と名乗り出たのは太子の楽慶であった。これに対して楽慶の傅役である由突が制止した。


 「主上のお怒りは凄まじく、今、諫止を行えば慶様にもお怒りが及びましょう。座して成り行きを見守られるべきでありましょう」


 由突の諫言は楽慶の身を守ることを第一に考えれば、ひどく常識的なものであった。


 「主君が道を誤れば、それを正すのが臣下の役目。親が間違えたことをすればそれを糺すのが子の役目ではないか?」


 楽慶は逆に由突を諌めた。普段、温和な楽慶であったが、この時ばかりは有無を言わせない迫力があった。


 「左様でございましょうが……」


 「ここで誰かが諫止せねば、これから誰も主上に意見を申し上げることをしないであろう。それでは国の行く末を誤らせる」


 楽慶に恐れはなかった。ここで楽伝の勘気に触れ、太子の座から下ろされても構わぬという気構えでいた。


 楽慶は由突の言を振り払うようにして部屋を出ると、楽伝に目通りを願い出た。目通りが許されないことも楽慶は覚悟していたが、目通りの許可はすぐにおりた。


 「主上におかれましては、いかなる罪で宣施を追捕なさるのでしょうか?ましてや条国に兵を向けるとなると、条国と戦になってしまいます。一時期の感情に任せて戦をなさりますと、社稷に対して重大な瑕疵となりましょう。今すぐに出兵を取りやめ、寛大なお心で宣施を呼び戻しください」


 楽慶は言葉を選び、丁重に具申した。黙って聴いていた楽伝はであったが、内心では嫉妬に似た感情に支配されていた。


 『慶とはこれほど物を言える男であったか……』


 振り返ってみれば、自分はこれほど父である楽玄紹に意見を言えただろうか。たぶん父の目を気にして言えなかったであろう。そう考えると、父の目を気にせず意見を具申できる楽慶に、そして自分に意見を言わせぬほど君主として完璧であった楽玄紹に、楽伝は激しく嫉妬していた。


 ここで楽伝は、楽慶の意見を退けることができた。しかし、それがあまりにも惨めであるということに気付く自尊心はまだ楽伝に残されていた。


 「考えておこう」


 とだけ言って楽伝は楽慶を下がらせた。楽宣施の探索は行わせたが、出兵は見合わせることにした。




 その晩、楽伝は条西の部屋を訪ねた。寝台に伏せっていた条西は、楽伝の姿を見るなり視線を外して涙を流した。


 「どうかしたか?」


 「いよいよ主とお別れせねばなりません」


 「何を言う。余がそなたを手放すわけがなかろう」


 「太子である慶様は宣施様を庇われました。いずれ慶様が国主となれば、宣施様を呼び戻されるでしょう。そうなれば、宣施様と条亜様は、私と楽安は宣施様によって殺されるでしょう。そういう未来が待っているのなら、今のうちにここを去りたいのです」


 「そのような世迷言を……。何人たりともそなたを害させはしない」


 「しかし、耀舌夫人は私を毒殺しようとしました。太子は温厚な方だとは聴きますが、その周りにいる方達はどうでしょうか?私はよいのです。ですが、楽安の行末だけが気がかりなのです」


 条西は楽伝にしな垂れた。彼女の涙が胸を濡らすと、楽伝の中で何かが弾けた。理不尽なまでの嫉妬と合わさって、楽慶に対して殺意しか抱かなくなってしまった。


 「太子に短剣を授けよ」


 翌朝、楽伝はそう命じた。




 楽伝からの使者が楽慶の屋敷を訪ねてきた。その使者が無言で短剣が入った箱を差し出すと、楽慶は悲しげに目を細めた。


 『やはり来たか……』


 楽伝に意見することを決意した時より、楽伝が自分を殺すのではないかという予感がずっとあった。それを承知に上で意見したのだが、本当にそのような事態になってみると、悲しみの感情しか湧いてこなかった。


 「慶様、お受けすることはありません。これはあまりにも理不尽です。各国の国主に、いえ、界公にこの無道を訴えるべきです」


 由突が楽慶と使者の間に立ち塞がった。使者も使いの内容がいかに理不尽か知っているので、由突のことを諫めることはしなかった。


 「由突。気持ちはありがたいが、臣下が主上の命令を無視し、子が親の言に従えないのも無道であろう」


 「ですが……」


 楽慶はすでに心に定めていた。今の楽伝の目を覚ますには、自らが主君と家臣、親と子の道理を示して諫死するしかないと思っていた。


 「これも運命なのかもしれない。すでに妻と子は龍国へと逃した。心残りは母のことであるが、主上も母上にはむごいことはするまい」


 楽慶は箱を手にした。蓋を開けると、真新しい短剣が納められていた。


 「あとは許斗にいる乗のことだ。乗ならば、きっと翼国をよくしてくれはずだ」


 そう言い残して楽慶は短剣で自らの首を貫き、自害して果てた。翼国の歴史書において、楽慶の名が出てくる箇所は少ない。それでも翼国の民衆の間では長く仁愛の人と語り継がれ、楽乗もその徳を慕って、自らが国主となってから楽慶を先代国主として追悼するのであった。


 楽慶の母である萌枝夫人は、由突によって息子の死を知らされた。萌枝夫人は涙ひとつ流さず、


 「流石は慶です。私は息子を誇りに思います」


 萌枝夫人は、そう言い残すと、自らも毒を仰いだ。こうして広鳳から良識ある人がまた一人去っていった。

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