漂泊の翼~17~

 羽則軍降伏の報せはすぐに楽伝から楽玄紹にもたらされた。羽達の誅殺と羽則の憤死も同時に知るに及んで楽玄紹はすべてを察した。


 「全軍が降伏するとは異常事態だが、偽りの降伏ではあるまい。処置は伝に任せるとして、彼らを虐げるような真似だけはしないように伝えろ」


 楽玄紹は指示を与えるとちらりと郭文を見た。視線の意味を察した郭文はわずかに視線を下げた。


 「敵とはいえ羽則は評価されるべき清廉な忠臣だ。それが亡くなったのは残念である。しかし、これで多くの将兵が死ぬことなく広鳳への道が開けたわけだ」


 あとは大軍を広鳳へ押し出すだけであった。捕虜の処置のために数日、尖軍山に滞在した楽玄紹達はいよいよ進発した。その前夜、楽伝が楽宣施を引き連れて楽玄紹の天幕を訪ねた。


 「これで羽氏の命運は風前の灯となりました。羽氏を滅ぼすことは我ら楽氏の悲願ではあります。これよりはそのために腐心してこられた父上に羽氏を滅ぼすための指揮を取ってもらいたいと思います」


 楽伝は恭しく告げた。決して楽伝は戦の指揮を取ることに自信がないわけではないだろう。寧ろ事態がここまで進んでいれば、羽氏を滅ぼすことは難しくない。それでも父に指揮を譲るというのは、羽氏を滅ぼすという楽氏の悲願達成を父の手によって成して欲しいという楽伝の孝心の表れ以上の何ものでもなかった。


 『味な真似をする……』


 楽伝に家督を譲った以上、楽玄紹はこの手の申し出を拒否し、逆に叱責すべきであった。しかし楽伝の孝心が分かるからこそ、楽玄紹は無碍には断ることができなかった。


 「そうか……。お前がそこまで言うのなら儂が指揮をしよう。先陣は伝と宣施が行け。儂と乗で後陣を固め、成は遊軍として敵の逃亡に備えよ」


 楽玄紹は颯爽と命じた。自身が十歳は若返ったような高揚感に満ちていた。




 一方で羽氏は全軍の半数以上が消滅したことになる。羽則が引き連れた四万五千名の兵士のうち、降伏したのは約三万名に及び、広鳳に戻ってきたのはわずか三千名程度であった。羽禁は、その報せを受けると目を見開いて驚いた。そして報告が終えると、兆会を呼んだ。


 「いかがなさいました?」


 まだ羽則の死と三万名の降伏を知らない兆会は、普段と変わらぬ様子で羽禁に接したが、羽禁は徐に近くにあった花瓶を手にすると、躊躇いもなく兆会の頭上に振り下ろした。


 「貴様のせいで羽則が死んで、三万の兵が楽に降ったではないか!」


 羽禁は叫んだが、その声は兆会には届かなかった。流血して倒れる兆会は即死していた。


 「こうなったら広鳳の男共全員に剣と槍を持たせろ。それに条国に援軍を頼め!」


 羽禁が声を荒げて命令した。武器庫から根こそぎ武器が出され、広鳳にいる男子は少年から老人に至るまで徴兵された。


 そして使者が条国に飛んだ。羽禁と条国につながりがあった。羽禁の妾に条西という女性がいた。実は彼女は条公一族の女であった。その肌は磨かれた璧にも勝るといわれた美貌の人で、二年ほど前に羽禁が祭礼のために条国を訪れた時に見初め、妾として欲しいと条公に頼んだのである。


 『国主一族の娘を妃ではなく妾として欲しいとは……』


 無礼ではないか、と思うと同時に条公は、羽禁の人として国主としての力量を知ることができた。だが、当時の条国は静国との諍いが絶えず、翼国との紐帯は必要不可欠であると判断し、条西を送り出したのだった。


 そのような経緯があり、羽禁は条公が助けてくれるものだと思っていたのだが、沈毅で知られた当時の条国は冷徹であった。 


 「国家の柱石というべき羽達と羽則を殺し、三万もの兵が敵方に寝返るような国主だ。仮に援軍を出したとしても広鳳に辿り着いた頃には羽禁はこの世におるまい。そなたもどういう形であれ広鳳に戻っても立つ瀬があるまい。どうだ、ここに残って我に仕えぬか?」


 条公にそう言われた使者は、確かにそのとおりだと思い、条国に残り条公に仕えてしまった。条公としては条西の行方が気がかりであったが、羽禁に差し出した段階で彼女の命運には諦めを感じていた。


 降伏した捕虜を含め、七万名を超える大軍で南下した楽氏軍は広鳳を包囲した。広鳳の城壁には弓兵が居並び、徹底抗戦の構えを見せていた。楽氏軍の先陣はやはり楽宣施が務めた。


 「広鳳では我らこそ一番乗りの戦功を立てるのだ!」


 長蛇の坂、尖軍山の戦いで後れを取った楽宣施は、ここでこそ戦功を立てるべく遮二無二広鳳を攻めた。しかし、城壁を守る兵士達は必死に抵抗し、堅城はそう簡単に陥落させることができず、一ヶ月が経とうとしていた。

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