漂泊の翼~15~

 羽則と入れ替わるようにして、捕虜交換の使者が広鳳に到着した。楽氏と羽氏の間では度々捕虜の交換が行われていた。広鳳にはこれまでの戦いで捕虜となった楽氏の兵が百名ほどおり、それと楽氏が先の戦いで得た捕虜を交換しようというものであった。


 「よかろう。断る理由はあるまい」


 羽禁は二つ返事で了承した。捕虜交換はこれまで慣例として行われていたので、それほど深く考えることはなかった。


 捕虜交換に応じた羽禁は、早速捕虜から楽氏の情報を聴取させた。捕虜交換をするひとつの意義は敵の内部情報を得ることにあったのだが、そこに恐ろしい毒が含まれていると考えるべきであった。しかし、羽禁にはそのような思慮がなかった。


 「ふん。楽氏はそれほどまでに羽達を恐れているのか……」


 報告を受けた羽禁は、内容をあまり精査することなく、捕虜の情報を真に受けていた。この時点では羽達を呼び戻した自分の判断を自画自賛し、羽達が帰ってくれば楽氏を滅ぼすことができると信じて疑っていなかった。


 しかし、捕虜からの情報が郭文が施した毒と相俟って次第に尾鰭がつき始め、瞬く間に広がっていった。


 『楽氏は主上より羽則、羽達親子を恐れている』


 『楽氏は羽達様が国主となられること最もを恐れているらしい』


 『羽則は羽達様を国主にすべく呼び寄せたのだ』


 『羽達と合流した羽則は軍を反転し、広鳳を占拠するつもりだ』


 そのような実証性をもたない噂が宮殿や軍内部に留まらず、市井でも囁かれ始めた。そうなるとその毒を蜜と勘違いして寄ってくる害虫如き人物が現れるのが世の常であった。


 その人物は兆会といった。羽禁の祐筆であった。羽禁から発せられる命令は、すべて兆会を通じて文章化されるうえ、羽禁からは絶大に信頼されていたので権勢を誇っていた。また小才をひけらかすこともあったので、様々なことを羽禁から諮問されることもあった。


 「最近、よからぬ噂が広がっているようだが、お前も聞いているか?」


 「臣の口端に上るのも憚れる噂ですが……」


 兆会は慎重に言葉を選んだ。もしこの噂が本当であるとすれば、羽禁は除かれ、兆会の権勢は失墜する。それに権勢を誇っている兆会は羽則にあまりよく思われていない。一度だけ君側の奸と罵倒されたこともあった。兆会からすると、羽則と羽達を追い落とす好機でもあった。


 「煙のないところに噂は立たないものでございます」


 兆会はそう言ってしまった。これに対して羽禁は、同意するように何度も頷いた。


 「やはりお前もそう思うか。あのやかましい腐れ爺!俺を排するつもりか!」


 つい先頃まで楽氏と戦おうとする羽則を称え、彼の言動をすべて信頼していた羽禁であったが、今では完全に猜疑の目を向けていた。この精神的な変遷の激しさは異常であるとしか言いようがなかった。


 「羽達に使者を立てよ。そして短剣を授けよ」


 要するで短剣で自刃せよ、ということである。しかし、兆会は首を振った。


 「それはなりません。道中で使者を迎えれば、羽達は怪しんで逃走するかもしれません。それで羽則と合流されては、それこそ虎に翼を与え野に放つようなものです」


 「では、どうすればよい?」


 「羽達を宮殿までお招きされ、大いに歓待なさいませ。その宴席で刺殺すればよいのです」


 「では、そのようにせい。しくじるなよ」


 羽禁からすれば、もはや目前の敵よりも謀略の成否の方が気がかりになっていた。




 条国で召喚状を受け取った羽達は急いで広鳳に帰還しようとしていた。国家存亡の危機に自分が必要とされていることは、人臣として何よりもの喜びであった。当然ながら羽達には羽禁にとって替わって国主になろうという野心など微塵もなかった。それどころか羽禁を主とした羽氏宗家を守ることを最上の喜びとしていた。その点では父である羽則と同様であった。


 「よくぞ帰ってきた、羽達よ。今宵は大いに飲んで明日からの英気を養ってくれ」


 広鳳に到着すると同時に宮殿に呼ばれ、羽禁自ら杯に酒を満たしてくれた。羽達はそれだけで感激し、涙を流した。だが、それが羽達が流した最後の涙となった。宴もたけなわになった頃、羽禁がはばかりのために席をはずした。その直後であった。剣を持った寺人数人が宴席に乱入し、瞬く間に羽達を切り殺してしまった。


 「醜い骸だ。適当な所に埋めて始末しろ」


 宴席に戻って羽達の死を確認した羽禁はそう命じてすぐに立ち去った。


 この事態はすぐさま広鳳に住んでいた妻の羽陽にも知らされた。羽陽は久しぶりに帰ってきた夫に遭うこともできず、彼の部下によって永遠の別れを告げられたのである。


 「なんという……。夫ほどの忠勤の臣が不忠の罪で殺されるなんて……」


 羽陽は声を上げて泣いた。それにつられる様にして幼き子達も母にすがり付いて泣いた。それを見守る羽達の部下達も静かに涙した。


 羽達を誅殺した羽禁であったが、その家族に対しては何の咎も負わさなかった。こういう場合、将来に禍根を残さないためにも一族郎党諸共に誅殺するものなのだが、羽達を殺しただけで満足した羽禁はそれ以上のことを行わなかった。戦場に出ている羽則にも、羽達を謀反の疑いで誅殺したという書状を送りつけただけであった。羽禁という人物の言動には一貫性がなく、どうにも分かりづらかったが、間違いなく言えることは人格的に破綻しているということであった。

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