漂泊の翼~11~
楽乗が尾城を奪取するという偉業とも言うべき戦果を成し遂げた一方で、楽宣施は恐慌状態にあった。黄桓の軍に見つかり、猛攻を受けていた。
「どうしてこんな所に敵がいるんだ!」
黄桓軍から攻撃を受けた時に楽宣施が発した第一声がそれであったという。楽宣施からすれば、まさに予定外の会敵であった。楽伝のお膳立てにより、目覚しい戦果を挙げるはずであったのに、一転して絶滅の危機に陥ったことは不本意であったの違いない。
しかし、楽宣施はあまりにも粗漏であった。いくら予め決められていた作戦を実行するだけとはいえ、広く斥候を出して戦局を把握しておくべきであった。戦とは生き物である。常に流動しているものであるし、敵も味方も必ずしも想定どおりに動くとは限らないのだ。だからこそ斥候を出して状況を掴み、それにあった対応をせねばならなかったのに楽宣施はそれを怠った。楽宣施には応変の才がなく、粗漏としか言いようがなかった。
それでも楽宣施は奮戦した。勇気だけは三人の公子の中で最も多く持ち合わせていると評されるだけに圧倒的劣勢にあっても楽宣施の軍は勇敢に立ち向かった。一時的に支え続けたが、黄桓の間断のない攻撃に屈し、ついには退却を余儀なくされた。楽宣施にとって幸いだったのは、黄桓軍の主戦力が兵車であったため、騎馬が主体の楽宣施軍は追撃を振り切ることができたことであった。
敵を誘引するために北へと引いた楽伝は、軍を反転させて再び南進していた。したがって、北上してくる黄桓を迎え撃つためではあるが、それにしても敵の追撃が遅いと思い始めていた。そこへ窮状を訴える楽宣施の使者が駆け込んできた。
『宣施が危ない!』
楽伝は隊伍が乱れるのも気にせず軍を急いで南下させた。楽伝は楽宣施という子を愛していた。正確に言えば、楽宣施の母である耀舌夫人を愛していた。息子を溺愛している耀舌夫人を悲しませるようなことだけはしたくなかった。
「急げ!宣施が死ぬようなことがあれば、父上と耀舌に合わす顔がない」
参謀達が隊伍の乱れを指摘しても聞き入れることなく、兎に角急がせた。その甲斐あってか、敗走してきた楽宣施と遭遇し、これを収容することができたが、親子の感動の再会をする間もなく、黄桓の軍が姿を現した。
「かかれ!今が勝機ぞ!」
いつもは万事慎重な黄桓であったが、勝機を見逃すほど鈍重ではなかった。全軍を大きく横列にし、楽伝軍を包み込もうとした。
「反撃しろ!数は我らの方が上のはずだ!」
しかし、楽伝が隊列が南北に伸びきって乱れていた。さらに、楽伝軍の主体は騎馬である。騎馬は機動性はあるが防御には弱いため、兵車を主体とする黄桓軍の餌食になっていった。
『まずいぞ……』
しかし、敵は攻勢を強め、楽伝軍はじりじりと後退を余儀なくされていった。ここで踏ん張って敵を追い返さなければ、全軍が崩壊してしまうだろう。
だが、楽伝は凌ぎきった。夕暮れを迎える頃に黄桓軍が撤退し始めたのである。楽伝は夜になるから敵が攻勢を中止したのだと思っていたのだが、実情は違っていた楽玄紹は援軍を率いてきただけではなく、楽伝から遅れていた後続部隊をまとめて黄桓軍の側面を突こうとしていたのである。
「危ういところであったが、まず無事でよかった」
楽玄からは楽伝の失態を起こる様子もなくにこやかであった。楽伝からすると、公主となって早々に失態を演じて叱責されるものと覚悟していた。
「伝よ、そんな顔をするな。兵が見ている。敵は撤退したのだ。今はそれでよしとしよう」
「はぁ……」
「それよりも急いで南下するぞ。今度は乗が危ない」
楽伝が楽玄紹が言っている意味が分からなかった。だが、半刻ほど後に楽乗からの尾城を奪取したという報告を携えた使者が駆け込んできてようやく理解することができた。
楽伝軍に対して猛攻を加えていた黄桓は、側面部から別働隊が接近していると知ると、すぐさま退却を決意した。あと一歩で楽伝軍を壊滅させ、楽伝親子を生け捕りにできるかもしれなかったが、ここで黄桓の慎重さが顕現となり、危険を犯しての勝利よりも、兵の損失を防ぐことを優先した。
「敵は我らを追ってくるかもしれん。尾城を拠点として逆劇する」
黄桓の戦略はひどく常識的なものであった。しかし、その常識を越え策を用いた者達がいることを黄桓は知らなかった。
「なんたることだ……」
黄桓は尾城に 『楽』と染め抜かれた赤色の戦旗が尾城に翻っているのを見て絶句した。拠点とすべき尾城が敵に奪われているなど一片も想像していなかった。
「将軍、一気に攻めましょう。敵の別働隊が占領したとなれば、籠もっている敵は少数。奪い返せます!」
部下達は進言したが、ここでも黄桓の慎重さが露呈した。
「ここで攻めて時間を消費すれば、今度は背後を襲われる」
断腸の思いであったが、黄桓は尾城の奪還を諦めた。尾城を背にして広鳳まで退却することになった。楽乗は黄桓の慎重さによって急死に一生を得たのであった。
翌日、楽玄紹と楽伝は尾城に入った。
「よくやった、乗!古今、これまでの戦果を挙げた者はおるまいよ」
本来なら楽玄紹は隠居であるので、そういうことは遠慮して楽伝に言わずべきであったのだが、あまりの嬉しさに我慢でず、楽乗の手を取って褒めに褒めた。どのようにして尾城を奪ったかを楽乗が説明いている間も楽玄紹は嬉しそうに笑顔を絶やすことがなかった。
「どうだろう、伝。今回の最大の功績はやはり乗にあると言ってもよかろう」
楽玄紹が言うと、表情の乏しい楽伝は頷くだけであった。
「今回のことは郭文が作戦を練り、龐克殿が前線に立って攻め取りました。功はこの二人にあります。褒詞と恩賞はこの二人にお授けください」
「よくぞ申した!」
おそらくはその場にいた者のほとんどがこれまで上機嫌の楽玄紹を見たことがなかったであろう。ただ彼らは楽玄紹がそこまで上機嫌になるのは無理もないことだと理解していた。そして楽伝が無表情なのは、溺愛している楽宣施に手柄を立てさせることができず、逆に愛情を感じていない楽乗が楽玄紹から絶賛されているのが気に入らないのだろうと解釈をした。しかし、実際には楽伝は、
『乗にはそれほどの才があったのか……』
と感心していた。楽伝は楽乗に対して愛情を感じていなかったが、嫌っているわけではなかった。示された結果を情愛の差によって偏らせて見るほど目は曇っていない。楽乗が成した功績の大きさは言われるまでもなく理解しているし、その功績を自らのものとして誇らず郭文と龐克に譲った器の大きさも、認めざるを得なかった。だが、これまで愛情少なく接してきた我が子に自分を超えているかもしれない将器を見せつけられて、親としては戸惑いしかなかった。
『それに父は乗の才覚を見抜いていた』
それこそが楽伝を素直にさせず、楽乗に対して今まで以上に鬱屈した感情を抱くようになった。
楽乗は父の視線というものを敏感に意識していただけに、楽伝が浮かない顔で褒詞のひとつも述べてくれないことに落胆した。だが、以前の楽乗と違うのは、父以外に愛情を向ける存在が生まれたことを実感したことであった。
『私には家臣達がいてくれる』
傅役の郭文だけではなく、胡旦、胡演兄弟は楽乗を助け、楽乗の戦果を喜んでくれた。家臣ではないが、共に戦った龐克も別れ際に、
『乗様はよき家臣を持たれた。乗様自身も器量が大きい。きっとこれからの楽氏を支えるには乗様であろう』
龐克は楽乗の利害から外にいる人物である。その龐克から賛辞を贈られたのは楽乗にとって何よりもの宝であった。そして楽乗は奪取した尾城を任されることになったた。そのこともまた楽乗にとっては宝となるのであった。
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