蜉蝣の国~55~
樹弘は一部兵力を衛環に残し、泉春へと帰還した。実に十ヶ月ぶりの泉春であった。百官揃って泉春宮の門前で樹弘を迎えた。いずれも懐かしい顔であったが、その中に景朱麗の姿はなかった。
「朱麗さんは?」
「姉さん……丞相は執務室におります」
答えたのは景黄鈴であった。職務を優先するところはいかにも景朱麗らしいと思った。樹弘がそのことを口にすると
「きっと姉さんは照れくさいんだよ」
景黄鈴はそっと囁いて笑った。
景朱麗は執務室で机に向かいながらもそわそわしていた。
『そろそろ主上が戻られる頃か……』
先ほどから意味なく書類を広げたり、筆を握ったりしているけど、どうにも上の空であった。
『姉さんも迎えに出ればいいのに』
数刻前、妹の景黄鈴は誘ったが、景朱麗はとっさに拒否してしまった。泉春宮の門前で樹弘を出迎える自分を想像しているうちに、顔が火照り、挙句に泣き出しそうになってしまったのだ。この調子では実際に出迎えると、景朱麗は醜態を晒してしまうであろう。だから景朱麗は拒否してしまったのである。
『主上は私を冷たい人間だと思われるだろうか……』
景朱麗にはまだしこりがあった。伯国の問題で樹弘と言い争って以来、許されたとはいえ、心情的にはまだ樹弘との関係が改善されたとは思っていなかった。むしろ空白となった歳月がより二人の関係を冷え込ませているのではないかと思うほどであった。
やはり一度樹弘とじっくり話をしたほうがいい。それも早いほうがいい。景朱麗が意を決して樹弘を出迎えに行こうとすると、扉が叩かれた。
「どうぞ」
と言うと扉が開き、中に入ってきたのは樹弘であった。
「主上……」
景朱麗の鼓動が一気に加速した。
「ただいま、朱麗さん。その……いろいろと迷惑かけたね」
樹弘は照れくさそうに頭をかいた。
「よくご無事で……」
「うん。なんとかね。伯国とのこと、結局、朱麗さんの言ったとおりになってしまった」
樹弘がゆっくりと歩み寄ってくる。その表情には憂いが読み取れた。泉国としては伯国を併合できたことは慶事に違いないが、樹弘にとってはきっと辛い選択だったのだろう。
「蒼葉の報告書を読みました。主上にとってお辛い……」
不意に樹弘が視界から消えた。あっと思っていると、樹弘の体は景朱麗のすぐ傍にあり、彼は景朱麗に抱きいた。
「しゅ、主上!」
驚きで一瞬頭が真っ白になったが、すぐに冷静さを取り戻した。樹弘は景朱麗の胸に顔をうずめながら声を漏らして泣いていた。
『主上は本当に辛く、苦労されてきたのだ……』
樹弘はきっと誰にも甘えることができず、弱さを見せることのできない日々を送ってきたのだろう。そして友人となった伯淳の死と、不本意である伯国併合という決断をせねばならなかった樹弘の心労は図り知ることができなかった。
「僕は卑怯者だ」
樹弘は呻くように言った。景朱麗は樹弘の言葉の意味を明敏に察した。今回の件で最も得したのは間違いなく樹弘であった。樹弘は征服者としてではなく、救国の英雄として伯国に登場し、併合することができた。伯国の民衆からも歓喜と熱気を持って迎えられた。
ただその過程を振り返ると、樹弘は身分を隠し伯国に潜入していた。客観的に見て伯国併合の下準備をしていたと見られてもおかしくはなかった。
それだけではない。伯淳が死に、伊賛を討とうとした時、その判断を樹弘は李志望にゆだねた。要するに李志望から要請されたという形で衛環を攻めたということになり、樹弘は征服者という肩書きから逃れることができた。後世の歴史家が捻くれた視線で歴史書を執筆すれば、樹弘を卑怯者であるとするかもしれない。
『自身の行いをそこまで見られる主上の魂の高潔さよ』
景朱麗は自分の腕で泣きじゃくる樹弘のことを誇らしく思った。この人の臣下であることが堪らなく嬉しかった。
「主上。主上が卑怯者であるならば私も卑怯者になります。よいではありませんか。言わせる人には言わせておけばいいのです。主上の行いは天が知り地が知っています。そして私達が知っております」
景朱麗はそっと樹弘の頭を撫でた。そして愛おしく、主と仰ぐ人をそっと抱きしめた。
「主上、お疲れ様でした。今はゆっくりとお休みください」
樹弘は頷いているようであった。景朱麗は樹弘が離れるまでずっとこうしていたいと思った。
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