蜉蝣の国~49~

 翌朝、紅蘭は李志望と共に楼台に上った。そこで敵軍の様子を伺うのが日課のようになっていた。いつもであれば敵軍が粛々とこちらに向かってきて嶺門の城壁に攻めかかろうとするのだが、この日は敵軍の動きがまるでなかった。


 「敵軍に何かあったようですな」


 李志望は怪しむような視線で遥か前方の敵軍を眺めていたが、そこにはやや安堵の表情も見て取れた。攻めてこないのだから、嶺門陣営からするとありがたいことではあった。


 「偵察を出しましょうか?」


 李志望の副官がそう進言した。李志望は何も言わず、じっと敵軍の様子を観察していると、ようやく李炎軍が動き出した。しかし、嶺門の側に攻めてくるのではなく、軍全体を西側に向けようとしていた。


 「援軍……もしや」


 しばらく見守っていると、紅蘭は闇に光が射すような希望を見た。山影から『泉』と染め抜かれた戦旗が現れたのである。


 「泉国軍だ……」


 樹弘が使者との役目を果たしてくれたのである。隣の李志望の顔は興奮で紅潮していた。


 「しかし、数が少ない」


 確かに泉国軍は李炎軍の半分程度しかないようであった。両軍は正面から激突したようであるが、数で劣るであろう泉国軍が瞬く間に李炎軍を飲み込んでいった。


 「強い……これが泉国軍」


 李志望が息を飲む音が聞こえた。紅蘭は戦の素人であるが、それでも泉国軍の強さは圧倒的なのは見ていて分かった。昼前には李炎軍は集団を成しえず崩壊していった。


 「好機だ!我らも出よう!卑怯者の炎を許すな!」


 李志望は楼台から飛び下りていった。すぐさま嶺門で動ける兵士を率いて門扉を開けて李炎軍へと突撃していった。紅蘭も楼台から下りた。もうこの楼台に上ることはないのだろうと思えた。




 勝敗は泉国軍の圧勝であった。そもそも戦意に乏しい李炎軍に対して、泉国軍は少数ながらも相房の内乱を戦い抜いてきた精鋭である。戦端を開いたと同時に猛攻を仕掛けてきた泉国軍に押しつぶされるようにして李炎軍は敗退を重ね、嶺門から出撃してきた李志望軍が参戦すると総崩れになった。夕刻となり、李炎軍は完全に姿を消した。


 李志望は戦闘が終わると、全軍を嶺門の門前に集結させ、泉国軍を待った。紅蘭も外に出て軍勢の中にいるであろう樹弘を待つことにした。泉国軍も戦闘を終え、隊列を整えていた。その迅速さと隊列の美しさに李志望が感嘆の声が漏れるほどであった。


 「誰か来ましたな」


 李志望の声に全軍に緊張が走った。泉国軍から身なりの良い騎馬武者が供を連れてこちらに向かってきた。


 「李将軍でしょうか。私は泉国軍右中将蘆明と申します」


 その名は紅蘭も知っていた。かつて泉国と名将とされた蘆士会の息子で相房の内乱の時も、真主の直営軍を指揮して勇名を馳せていた。


 「李志望であります。この度は救援ありがとうございました」


 李志望は蘆明という武人の威に圧されているようであった。明らかに自分よりも年少の蘆明に対して非常に丁重になっていた。


 「礼は我らが主上になさってください」


 蘆明が言って振り向くと、騎馬に乗った一人の青年が紅蘭達の目の前に現れた。それは紅蘭が中が予期しながらも、実は違うのではないかと何度も反芻してきた光景であった。馬上にあったのは他でもない樹弘であった。蘆明は馬上からはであったが、樹弘に対して深く頭を下げていた。やはり樹弘こそ泉国の真主樹弘であったのだ。


 「やっぱり樹弘じゃないか」


 紅蘭は嫌味ったらしく呟いた。しかし、今の樹弘は紅蘭の声が届かない距離にいた。


 「夏弘殿が……真主樹弘……」


 李志望は呆然としていた。泉国主上として現れたのが夏弘と呼ばれていた青年だったのだから、驚くのも無理なかった。


 「李将軍。あなたを騙すことになって申し訳ないと思う。だが、こうしなければ僕は伯国のことを知ることができなかった。許してほしい」


 樹弘が馬から下りて頭を垂れた。李志望は慌てるようにして膝を折って拝跪した。


 「いえ、とんでもございません。夏弘……いえ、樹弘様がおられたこらこそ、我らは助かったのです」


 嘘をつかれていて気分的に面白くなかろう李志望であったが、樹弘の威と素直さに打たれたのか、まるで家臣のように従順であった。


 「詳しいことは後にしよう。それよりも伯淳はどうだ?泉国から名医を掻き集めてきたんだが……」


 「左様でした。こちらです」


 我に返ったように李志望が立ち上がり、樹弘を嶺門にいざなった。紅蘭は声をかけそびれてしまった。

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