蜉蝣の国~41~
樹弘が衛環での変事を知ったのは、衛環から一舎の距離にある邑に辿り着いた時であった。
『遅かったか!』
樹弘は己の判断の遅さを悔やんだが、どうやら伯淳が衛環を脱したらしいと知ると、すぐさま伯淳を捜すことにした。
『伊賛という男を甘く見ていた……』
深夜にも関わらず伊賛は周辺の邑に布告を出していた。それを近くの邑で知った樹弘は、伊賛という老人の悪辣に怒り、身を震わした。伊賛は伯淳が伯国を泉国に売ろうとしていたので阻止するために討たんとした、と布告したのである。勿論それは無宇が入手した書状とは正反対の内容であった。
『驚くべき二枚舌だ!』
伊賛は自らの保身と富貴のためだけに国家を壟断しようとしている。しかも、それに泉国を巻き込もうとしている。樹弘としては当然それを許すわけにはいかなかった。この時、樹弘は決断していた。
『泉国の軍を伯国に入れる』
勿論、伯国を攻め滅ぼすためではない。泉国軍の力によって伯淳を守り、伊賛を除くのである。泉国としては一寸の領土も得られない戦いになるかもしれないが、成せねばならぬ戦いではないかと思えた。
ただ軍を入れる時期が問題である。すぐに入れてしまえば、伊賛の言葉が真実であったかのようになってしまう。少なくとも伯淳を保護し、李志望などの伯国の人物の賛同を得ねばならない。
『ともかくも伯淳を見つけないと……』
伯淳を捕らえよ、という触れが出ている。ということはまだ伯淳は幸いなことに殺されていないということである。さらに幸いであったのは、樹弘が訪れた邑に敏達が逃げ込んでいたことであった。伯淳を捜すために邑を出ようとした樹弘は、変装していた敏達に袖を引っ張られたのである。
「夏弘殿、お助けください」
樹弘と敏達は面識があった。若手の気鋭官吏である敏達も、樹弘から様々な政治諮問を受けており、何度も顔を合わせていた。
「敏達殿、主上は?」
「分かりません。私も主上にお仕えしている宦官より急報を受け、身一つで逃げ出したのです」
「宦官が?琳唐殿か?」
「いえ、琳唐の配下です。琳唐は主上をお逃がすために亡くなられました」
「そうか……」
「夏弘殿、馬車を用意しております。主上をお捜し申し上げましょう」
樹弘としても異存がなかった。敏達の配下が用意した馬車と騎馬で伯淳の探索することにした。
道中、樹弘は伯淳襲撃の実行犯が李炎であったことを敏達から教えられた。
「李炎がそのような暴挙に及ぶとは……」
「李炎がどういう理由で主上を殺害しようとしたかは分かりませんが、今の主上が頼られるとすれば嶺門の李志望将軍しかおりますまい。ひとまず北へと参りましょう」
それについても異存がなかった。樹弘は泉姫の剣の力を借りて神経を研ぎ澄ませていた。
『泉姫、物音を探れ。朝になるまでに見つけたい』
『承知しております。近くに騎馬の群れがいるようです』
まず泉姫の剣によって樹弘が探知できたのは追っ手の動きであった。
『追っ手をまずやっつけよう』
そうすれば伯淳も逃れやすくなるだろう。この樹弘の判断がさらに幸いを呼んだ。追っ手の騎馬隊を見つけて襲撃の機会を伺っていると、その騎馬隊が伯淳達を発見したのである。
「夏弘殿!あれは!」
「敏達殿、先に行く!」
樹弘は激しく馬の腹を蹴った。
『泉姫、行くぞ!』
『承知しました、主上!』
樹弘の体が漲ってきた。騎馬隊は伯淳達を取り囲もうとしていたが、樹弘の存在に気がついたようで二騎ほどが向かってきた。
「何者か!」
「うるさい!」
剣を振るって二騎の騎馬から武者を叩き落した樹弘は、そのまま切り込んでいった。今の樹弘に容赦はなかった。襲い掛かってくる騎馬武者を叩き潰していき、瞬く間に武者どもが地面に転がっていた。ある者は悶絶し、ある者はまったく動く様子がなかったが、樹弘はまるで気にしなかった。
「夏弘殿!」
「主上!柳祝殿、お早く馬車に!」
敏達の馬車がすぐそこまで来ていた。
「それが主上が……」
騎馬武者を倒すことしか考えていなかった樹弘は、ようやく地面に倒れている伯淳に気がついた。
「気を失っているだけかと思いますが、騎馬にぶつかって地面に叩きつけられたんです」
「ひとまず馬車に……敏達殿」
「は、はい」
慌てて馬車から降りてきた敏達が柳祝と協力して伯淳を馬車に乗せた。周囲を警戒しながらその光景を見守っていた樹弘は言い様のない焦燥感に襲われていた。
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