蜉蝣の国~34~

 伯淳が衛環に戻って一月が過ぎた。伯淳は勤勉に朝議に参加し、閣僚達になんとか流民を発生させないような政策を作るように指示してきた。


 最近では現在の閣僚だけではなく、若手の官吏などを召し、様々な案件を諮問するようになっていた。


 『伯淳に国主としての自覚と振る舞いが生まれてきた』


 もともと伯淳は幼さを残していたが聡明な少年である。これならば十分に国主としてやっていけるだろう。樹弘はそう判断した。


 「紅蘭。僕はそろそろ泉国に戻ろうと思うんだ」


 ある夜、紅蘭の部屋を訪ねた樹弘は切り出した。紅蘭は格別驚いた風もなく、何度か軽く頷いた。


 「そうだね。この様子なら伯国と泉国が戦争することはないだろうね」


 当分は、と付け足した紅蘭は苦笑した。


 「紅蘭はどうするんだ?泉国に帰るのか?」


 「そうだな……。もう少し旅を続けてみたい気もするけど、ただ……」


 「ただ?」


 「主上も柳祝さんも寂しがるよね」


 それは樹弘としても心残りであった。しかし、泉春にも樹弘を待っている人達がいる。彼らのためにも樹弘は帰らねばならなかった。


 早速樹弘は衛環を離れる旨を朝議終わりの伯淳に告げた。伯淳は至極残念そうな顔をしながらも止めることはなかった。


 「残念だけど、仕方ないよね。せめて今晩はささやかだけど惜別の宴を張らして欲しい」


 伯淳の希望に樹弘も異存はなかった。それでその夜は伯淳、柳祝、樹弘、紅蘭だけで夕食をとった。伯淳は終始ご機嫌で、政治の話題を一切出すことがなかった。ただ最後に、


 「夏弘。本当にありがとう。僕は夏弘に会って本当に変われたと思う。伯国の国民のために頑張るから見守っていて欲しい。そして機会があればまた遊びに来て欲しい」


 「勿論です、主上。それまでぜひご自愛ください」


 今度伯淳と会う時はお互い国主としてであろうか。樹弘はそう考えると楽しくなってきた。




 夏弘が衛環を去る。それがいずれ訪れると知りながらもずっと遠い未来のことであると思っていた柳祝は、いざそのことを夏弘から告げられると心の動揺が収まらなかった。 その収まらぬ感情を愛とか恋と言って片付けてしまうのは簡単である。ただ異性に対してそのような感情をこれまで持ってこなかった柳祝からすれば、それはやはり筆舌しがたい何かでしかなかった。だから惜別の宴の時も自分一人冴えない表情をしているのを柳祝は自覚していた。


 『主上でされ気丈でおられるのに……』


 柳祝はまずそのことを恥じた。何度か笑顔を作ろうとすると、夏弘の姿が目に入ってしまい思わず目を伏せてしまった。結局、宴の間は何一つ言葉を交わすことがなかった。せめて部屋へと戻る時に呼び止めようかと思ったが、二人きりになってもきっと言葉など出てこないだろうと思うと、勇気を振り絞ることができなかった。


 『私は愚かな女だ』


 そう思って夏弘に背を向けた柳祝であったが、しばらくして背後から声をかけられた。


 「柳祝さん、少しいいかしら」


 紅蘭であった。柳祝は即座に頷いた。


 二人は近くの露台に出た。涼しい風が幾分か柳祝の感情を落ち着かせてくれた。


 「柳祝さん、元気なかったですね。どうしたのって聞くのは野暮かな?」


 きっと紅蘭は柳祝の感情を正確に読み取っているに違いなかった。だから一人で柳祝に会ってくれたのだろう。


 「紅蘭さんは夏弘殿と幼馴染と言っていましたが、本当にそれだけの関係なのですか?」


 自分でも随分と頓珍漢で唐突なことを尋ねていると思った。しかし、自分の今の感情を紅蘭に伝えるには最も適しているようにも思えた。


 「やっぱりそういうことか……」


 紅蘭ははにかみながら言った。


 「今だから言うけど、私と夏弘が幼馴染というのは嘘なんだ」


 どくりと柳祝の鼓動が高鳴った。なんとなく幼馴染ではあるまいと思わせることがあったので、そのことについて驚きはなかったのだが、その先から出てくる言葉に柳祝は緊張した。


 「先に言うけど、私と夏弘は柳祝が思っているような関係じゃないよ。ちょっと野暮な要件があって一緒に旅をしているだけだ」


 本当にそれだけの関係だ、と紅蘭は繰り返した。


 「そうですか」


 柳祝はひとまず安堵した。


 「柳祝さんは夏弘のことが好きなのか?」


 当然ながら紅蘭からそのような質問が来るであろうとは思っていた。だから率直に応えることができた。


 「自分でもそれが分からないから辛いのです」


 男女の仲の恋愛感情というものをこれまで持ってこなかった柳祝にとって、夏弘に寄せる感情がそのようなものなのか、あるいは単純な憧憬なのか、区別がつかなかった。


 「その気持ち、ちょっとわかる気がするな。私もね、過去に好きな奴がいたんだ」


 夏弘のことじゃないよ、と紅蘭は付け加えて続けた。


 「そいつは腕っ節があるし、知識もあって私には憧れの的だったんだ。実際に他の女にも人気があって、そいつの周りにいるだけで嬉しかったんだ」


 懐かしそうに話す紅蘭であったが、急に表情を曇らせた。


 「でも、そいつがある時、生の男として私に女を求めてきたんだ。その時にも思ったんだよね。こいつは私にとっていい男じゃない。単に人物として尊敬していたんだと」


 生々しい話であるが、柳祝にはなんとなく理解できた。


 「私の我儘なのかもしれないけどね。私は尊敬できる人物だと思っていたのに、こいつにとって私は単なる女だったんだな、と思ってしまうと急に冷めちゃった。それでおしまい」


 照れ臭そうに苦笑した紅蘭は優しく肩を叩いた。


 「私の話が参考になった分からないけど、今生の別れじゃないんからさ。また私も夏弘もここに戻って来るよ。その時まで冷静に感情を整理しておけばいいと思うよ。それまでは夏弘に女を作らさないようにしておくからさ」


 紅蘭の優しい言葉に柳祝は少し涙を溜めながら笑って頷いた。

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