蜉蝣の国~31~
伊賛は今年で六十歳となる。伊家は代々伯国の重臣を勤め、伊賛も漏れずに伯国の要職を歴任し、十年ほど前に丞相となった。
丞相としての伊賛の政治手腕は可もなく不可もなく、伯国が一応の独立と経済的に自立できていたのも、仮主として立った泉国の相房が伯国に対して関心を示さなかったのと、静国と交易できたからであり、伊賛の才覚によるものではなかった。
伊賛が人よりも長けていたのは権謀の才であった。丞相の地位を得るまでは時として自分以上の権力者に阿り、時として詐術を用いて目上、同僚を追い落としたりしてきた。
だから依妃が甥を養子にして国主の後継にしようとした時も焦ることもなかった。伊賛はそれまで交流のなかった軍事上の中心人物である李志望と結び、武力的に依妃を封じ込め、同時に伯淳を捜し出して国主とした。国主が幼年となれば、伊賛こそが伯国の事実上の支配者であった。
しかし、伊賛に誤算があった。泉国ではすでに真主である樹弘が即位しており、目覚ましい発展を遂げていた。しかも、その真主を静公が応援しているとなれば、泉国が伯国を侵略した時、きっと泉国の味方をするであろう。そうなれば伯国の滅亡は明らかであった。
伊賛は丞相となって初めて焦ったといっていい。どのように策謀を巡らせても泉国に勝てそうになかった。
『もし泉国が侵略してきたら降るしかない』
伊賛は短絡的にそう考えた。進んで泉国に降れば、旧伯国を治める都督ぐらいにはなれる自信が伊賛にはあった。幸いというべきか、泉国はまだ攻めてくる気配がなかった。来るべき時までにじっくりと方策を考えていればよかった。
だが、ここでも伊賛に誤算があった。李志望の存在であった。李志望はあくまでも泉国と戦う姿勢を捨てなかった。これでは進んで降ることを主張する伊賛は卑怯の誹りを受けるし、なによりも李志望が好戦的であれば、いらざる戦火が衛環にも及ぶかもしれなかった。
『主上が掌中にあれば問題なろうかろう』
と伊賛は考えていたのだが、主上である伯淳は伊賛よりも李志望に懐いているようであった。李志望もまた自分が擁立した幼い国主に並々ならぬ忠誠を抱いている。李志望が伯淳に嶺門への視察を願い出た時も、恭順派である自分を討伐するための策謀ではないかと邪推するほどであった。仮に李志望が伯淳を手元に置き、伊賛討伐の旗をあげれば、ひとたまりもなかったであろう。
『ならば主上を廃するべきか』
伊賛はそのように考え始めていた。ちょうど依妃の残党が接触してきているところでもあった。いや、それよりも寧ろ、伯淳の首を手土産に先に泉国に降るのも方法かもしれぬと伊賛は考えていた。
だから、嶺門から帰ってきた伯淳が連れてきた二人の男女を見た時は、明らかに李志望の間者であると思った。しかし、話を聞いているとどうやらそうではないらしいと分かった。戦場での駆け引きしか知らぬ李志望がそのような手のこんだ真似をするとは思えなかった。
『ともあれ主上を早々になんとかせねば』
懇々と説いて泉国に恭順させるか。それとも廃して別の者を立てるか。あるいは……。伊賛の選択肢はまだ豊富であった。
嶺門から伊賛が帰ってきてから数日、伯淳が隣席にしての朝議が行われた。重大な案件もなく、閣僚からの定時的な報告がなされただけで終わるはずであった。いつもなら主上である伯淳も席に座っているだけで一言も発することなく引き上げていくのだが、今朝は閣僚達が立とうとしてもじっと腰を据えたままであった。
「主上、朝議は終わりましたが」
伊賛が声をかけると、伯淳は意を決したように唾を飲み込んだ。
「まだ朝議は終わっていない。各閣僚から報告をもらっているが、どれひとつとして我が国の流民に対する政策がないじゃないか」
伊賛をはじめ閣僚達はあんぐりと口を開けた。伯淳がこのようにして朝議で意見を言うのは初めてのことであった。
「る、流民でございますか……」
「そうだ。僕は嶺門へ行く道中も帰る道中も、我が国を離れようとする流民を多数見かけた。このままでは人民は飢えて困窮するだけだ。何か明確な対策はないのか?」
伯淳の声はわずかに震えていた。きっと勇気を振り絞ってのことであろう。
「対策と申されましても……」
「今すぐにないと言うのなら、明日までも各人考えてくるように」
そう言って伯淳は席を立った。圧倒されたように閣僚達はこれまで以上に深く頭を下げて伯淳を見送った。伊賛もそれに倣い、わずかに叩頭した。
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