蜉蝣の国~26~

 「貴君らもご存知かと思うが、泉国では真主が即位した。そのことにより急激に復興を遂げている。いずれ我ら伯国を併呑するために攻めてくるかもしれない」


 樹弘はわずかに息を飲んだ。紅蘭が意味ありげに視線を向けてきたが、樹弘は黙って李志望の言葉を待った。


 「勿論、泉国が攻めてこなければそれでよし。攻めて来た場合は全兵力を持って戦うつもりでいる」


 泉国との前線で指揮をしている李志望がそのつもりでいるならば、伯国が破れかぶれになって攻めてくることはしばらくはあるまい。樹弘はわずかに安堵した。


 「しかし残念ながら、伯国には泉国軍を引き入れ、現体制を排除しようとする輩もいる。先の国主であられた伯史様の妃である依妃の親族取り巻き連中だ」


 これは初耳であったが、伯淳が国主となった経緯を考えれば、十分にあり得ることであった。要するには、依妃一派は泉国の武力をもって伯淳を含めた現政権を排除しようと画策しているということであろう。


 「私達も聞きかじった程度しか知りませんが、依妃は殺されてその一派も粛清されたのではないですか?」


 紅蘭の問いかけに李志望は露骨に顔をしかめた。伯国の醜聞が他国の民衆に聞こえているのを恥に思ったのだろうか。


 「残党のような連中はいる。しかも、連中は丞相の伊賛に接触しているようなのだ」


 李志望の口から出てくるのは驚くべきことばかりであった。伯国の国情は、樹弘が考えていたよりも悪い方向へと進んでいるようであった。


 「ちょっと待ってください。丞相の伊賛と将軍が協力して彼を主上にしたのではないのですか?」


 紅蘭の疑問は尤もであった。李志望は痛い所を疲れたばかりに渋い顔をした。


 「我らも確証を得ているわけではない。あくまでも推察の域を出ていないのだが、奴は毒蛇のようにそっと胴体に巻きつき、一噛みで相手に毒を送り込む男です。自らの利権のためならば、依妃一派の誘惑に乗ってもおかしくはない」


 李志望の言葉には憎悪が込められていた。李志望と伊賛は伯淳を擁立する時には協力したけれど、実際には刎頚の交わりとはいかなかったようである。


 「主上を一時的とはいえ嶺門にお呼びしたのも、視察を建前にして少しでも危険から逃れていただくためだ。しかし、それが結果として主上を危険な目に遭わせてしまったとなれば……」


 危機は相当近くに迫っている、と李志望の表情に深刻さが増した。




 樹弘達が宿舎に戻ったのは深夜のことであった。馬車の中、樹弘も紅蘭も無言であったが、宿舎の部屋に入ると、紅蘭が早速口火を切った。


 「どうにもえらいことに巻き込まれそうだな。まさかここまで伯国の政情が混沌としているとは思わなかったが……」


 混沌とはまさに言い得て妙であった。伯淳を擁立したはずの伊賛が、その敵と結んで害しようとしている。これほど理解できぬ事態はないであろう。


 「分からないのは伊賛という男の考え方だ。伊賛は李志望と結んで伯淳を主上とすることで丞相の地位を確固たる者とした。彼は人臣として最高の地位を手に入れたのに、これ以上は何を望むんだ?」


 樹弘の問いかけに紅蘭は腕を組んで考えた。


 「まさか伊賛が国主となる……とか?」


 「だったら依妃一派が伊賛に接近しないだろう。依妃一派は、自分達の息のかかった者を国主にしたいはずだ」


 そりゃそうか、と紅蘭は言ってから思いついたように手を打った。


 「ひょっとすれば、李志望の排除とか……」


 それはあり得ると思った。伯淳擁立の功績は伊賛と李志望にある。伯淳が幼年である以上、国家の権限と官吏や民衆の衆望はこの二人に集まるわけであり、伊賛がその独り占めを狙っているとしても不思議ではない。


 「李志望を排除し、伯淳に代わって新しい国主を擁立したとしても、今度は依妃の残党とまた争うことになるはずだ。伊賛という男がそこまでのことを考えているかどうか分からないが、少なくとも李志望よりも御し易いとは考えているかもしれない」


 わずかな対面であったが、李志望は伯淳に国主として強い忠誠心を抱いている。伊賛が国家権力を独占しようとしているのなら、いずれ敵対していくのは明らかであろう。


 「人の欲というのは際限がないな。私なんかは丞相はおろか、その秘書官にでもなれれば十分だと思っているのに。まぁ、いざその地位に着けば、丞相になりたいと思うのかもしれないな」


 紅蘭は笑った。官吏になることを夢見ていて、景朱麗に憧れている紅蘭からすれば、確かに伊賛の欲は贅沢するぎる欲に思えただろう。


 『欲か……』


 一個人の欲のために国家が壟断されようとしている。そのことで民衆がさらに苦しむというのなら、樹弘としても座しているわけにはいかなくなった。


 「今日はもう寝よう。色々ありすぎて私はくたくただ」


 「そうだね。お休み」


 お休み、と紅蘭の大欠伸を背後に聞きながら、樹弘は自分の部屋へと戻ることにした。




 紅蘭の寝室を出て、隣の自分の寝室へ向かう僅かな距離の廊下を歩いていると、ふいに袖を引っ張られた。びっくりして振り返ると、無宇が立っていた。


 「無宇か……。驚かすな」


 「失礼したしました。声を出すわけにもいきませんので」


 「……。よく入ってこれたな」


 造作もないことです、と無宇は小さく笑った。


 「雲札の居場所が分かったのか?」


 「はい。嶺門から近い駐屯地におります。一緒にいた男も同じ場所です。兵士として登録したようですから、しばらくはそこを動かないでしょう」


 「そうか。ならば今度は泉春まで使いに行ってくれないか?朱麗さんに伝えて欲しいことがある」


 「何なりと」


 「一軍を貴輝に集結させておくように。但し、僕が直接命令する前は南下しないように」


 無宇がやや驚いたように樹弘を見返した。樹弘の命令を意外に思ったのだろう。だが、余計な口を挟まないのがこの男であった。


 「それともうひとつ、翼公と静公に使者を出して欲しい。内容は伯国で騒動が起こった時にはその解決を僕に任して欲しい、ということだ」


 もはや無宇が驚かなかった。ただ樹弘の命令に対して諾と言うだけであった。

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