蜉蝣の国~10~

 『泉国はよくなっている』


 街道を歩くその女性は、荷物の入った袋を肩に背負い、そのことを実感していた。


 相房の時代ならば、女の一人旅などできなかったであろう。昼間であっても、女一人であると分かると間違いなく盗賊に襲われていた。荷物を奪われるだけならまだ良いほうで、最悪の場合は誘拐され、奴隷として売り飛ばされることも少なくなかったという。


 『そもそも人通りが多い』


 女が見渡しただけでも馬車が数台。徒歩で行く旅人も十名ぐらいはいるだろうか。治安が良くなったことにより盗賊がいなくなったというのもあるだろうが、これだけ人がいれば賊も出現しないということであろう。


 『街道に馬車や人が溢れているということは、それだけ経済が向上しているということだ……』


 女は歩みを止めて街道脇の木陰に腰を下ろした。今日は朝から歩きっぱなしで流石に疲れてきた。


 「ここから近いのは麦楊か……。泉春で休憩すればよかったか……」


 女は意図的に泉春を避けてきた。真主の下で発展する泉春を見てみたいという欲望にかられていたが、先を急ぐことを優先した。泉国を隅々まで回るつもりでいる女は、ゆっくりしている暇などなかった。


 『本当に真主の政治が国内をよくしているか見聞する』


 それが女の旅の主眼であった。全国を見て回らない限り、女は真主を認めるつもりはなかった。


 女の名前は紅蘭と言った。生まれは桃厘であり、生家は桃厘を代表する商人であった。裕福な恵まれた環境であるといってよかった。毎日美食にありつき、欲しい服やおもちゃは親にねだれば必ず手に入れることができた。しかし、年が長じてくると、自らの境遇に不満と不信を抱くようになった。


 『私は恵まれている。しかし、世の中には恵まれていない人のほうが多い。本当にそれでいいのか?』


 富家であったため紅蘭は学校へ行き教育を受けることができた。そのことが紅蘭を変えた。彼女は教育を通じて世間を知ることになり、裕福な家庭で育った自分がかなり特別な存在であることを知った。そして、同年代のほとんどの少女が学校など行けず、好きな服も買ってもらえないということを知るに及んだ。


 『あの目が忘れられない……』


 あれは十五歳……いやもう少し前のことだろうか。紅蘭は学校の仲間と桃厘の大通りを歩いている時であった。今の紅蘭のように道の端に座り込んでいる同年代の少女がいた。


 その少女はみすぼらしい格好をしていた。着ている服はぼろぼろで背中はほとんど破れていた。髪はぼさぼさで、体中には痣があった。紅蘭は何気なく彼女と目が合った。それまで虚ろで、どこを見ているのか分からなかった女の視線が急に変化した。まるで紅蘭のことを親の敵を見るように、恨みを込めた視線で射抜いてきたのである。


 紅蘭とその女は一切何の関係もない。それなのにまるで怨敵のように睨みつけられたことに紅蘭は恐怖と衝撃を受けた。そして、富める者とそうでない者にどのような差があるのかという哲学的な問題に直面した。


 『差などないではないか……それなのに……』


 人として生まれた以上は平等であろう。しかし、生まれた家が違っただけで、ある者は裕福な生活を送り、また別の者は路傍に捨てられた雑巾のような存在になる。特に紅蘭の場合は、自らの手で手にした富ではないだけに、貧富の差というものに自責の念を感じた。


 それから懊悩し続けた紅蘭は、やがて学校を辞め、家をも飛び出した。それが五年ほど前のことである。裕福であることを捨てた紅蘭は、時には定住して働き、時には放浪して日雇い銭を稼ぐ仕事をして旅を続けていた。


 『もう五年か……』


 指折り数えると、紅蘭は今年で二十五歳になる。あの時家を飛び出さなければ、とっくにどこかの商家のご婦人として収まり、子供も何人か生んでいる生活を送っていたであろう。


 『そんな生活よりも、今のほうが性に合っている』


 紅蘭には後悔などなかった。しかし、そろそろどこかに腰を落ち着かせたほうがいいとは思っていた。今回は、その前の最後の旅であると自分で定義していた。


 「さて、そろそろ行くか……」


 紅蘭は立ち上がり、服に付いた土を払い落とした。荷物袋を担ぎ上げると、目の前を馬車が通った。


 「おやおや、お嬢さんの一人旅とは……」


 馬車を操っていたのは、いかにも好々爺といった感じの老人であった。


 「お嬢さん、どこまで行かれるのかな?」


 そう問われて紅蘭は少し考えた。悪い人物ではなさそうである。きっと馬車に乗せてくれるのだろう。好意に甘えるのなら、可能な限り甘えたい。


 「最終的には貴輝まで」


 「ほほ。儂は古沃までしか行かんが、よければ乗るがいい。多少楽にはなろう」


 「それでいいよ。でも見てのとおり貧乏旅だ。金はないよ」


 「構わんよ。若いお嬢さんとの会話が、一人旅の慰めになれば」


 正直な老人である。まず信用してもいいだろう。紅蘭はそう判断して、荷台に荷物を載せた。


 「私は紅蘭。お爺さんは?」


 「儂は雲彰と言う」


 雲彰は紅蘭が馬車に乗り込むのを確認すると、ゆっくりと馬を進めた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る