黄昏の泉~77~
日が昇り、辺り一面が明るくなると、湯瑛軍が驚倒する事態になっていた。いつの間にか樹弘軍が周りとぐるりと取り囲んでいたのである。
「樹弘とは馬鹿か!」
報せを受けてたたき起こされた湯瑛は見えぬ敵を罵倒した。戦術の常識として夜間における山中移動は危険が伴うため忌避されている。それを樹弘軍は敵前で堂々と行ったのである。見方を変えれば、湯瑛軍は侮られたということである。
「なんたる侮辱!前線の兵士は何を見ていたか!」
湯瑛は怒りわめき散らしたが、それで事態が改善されるはずもなかった。
「戦闘状態に入りました!」
前線からの伝令を受け、湯瑛は怒りを捨てて切り替えるしかなかった。
「こうなればやるまでだ!全軍、正面の敵に対して攻めよ!絶対に撤退するなよ!」
湯瑛は決して有効とはいえない命令を全軍に下達するしかなかった。
樹弘軍は足並みを揃えて一斉に攻撃を始めた。夜間行軍の疲れなど微塵も感じさせない猛攻を加えた。先述したとおり、相宗如軍の攻撃は全軍の中でも際立って苛烈を極めた。特に相宗如の配下である里圭は奮起した。
『我に名誉も恩賞もなにもいらぬ。ただ欲するは湯瑛の首のみ!』
泉冬の攻防戦で最も煮え湯を飲まされた男は、自ら部隊の先頭に立ち、剣を振るって仇敵を捜し求めた。
相宗如軍で奮戦したのは里圭だけではなかった。相宗如軍には景弱も属しており、初陣ながら周りが目を見張る武勇を発揮した。実は景弱自身が相宗如の配下に加わりたいと樹弘に申し出ていたのだ。
『相将軍の泉冬での戦闘指揮は学ぶべきものが多いと思いました。ぜひ相将軍の下で働くことをお許しください』
そのように懇願してきた景弱を樹弘はすぐに許した。
『景弱は父と祖父を犠牲にした僕達に文句ひとつ言わないし、相宗如にも悪感情を持たず、真摯に学ぼうとしている。それが景弱の最大の武器であるし、僕など到底及ばない美点だ』
樹弘は後に景朱麗に対してそのように語ったという。
話を元に戻す。相宗如が猛攻を加えた部分の湯瑛軍はほぼ壊滅状態になり、あと一歩のところで全軍が壊乱するとろこであった。
湯瑛軍は夜まで凌ぎきった。夜になって樹弘軍が攻撃を停止するまで、なんとか軍集団として維持できたのは、湯瑛の指揮と配下の将兵の奮戦によるものであった。しかし、湯瑛軍は上から下まで全将兵が朝から晩までの戦闘で疲れきり、しかも自陣に帰ってきた彼らを待っていたのは湯で薄められた粥が椀一杯だけであった。疲弊の極みにある兵士達が失望したのは言うまでもなかった。
対して樹弘軍は引き上げてきた将兵に惜しみなく食料を与えた。樹弘は各陣を回って兵士達をねぎらった。その一方で甲朱関は前線に対しては、
「敵が投降してくるかもしれません。その者達に丁重に扱うように」
という指示を出していた。実際に樹弘軍に投降してくる部隊は少なくなく、翌朝迎えた時には湯瑛軍の戦力は、昨日の戦闘での死傷者もあって半減していた。
それでも湯瑛は撤退するということを考えていなかった。寧ろ自らよき敵を求めて突出することしばしばであり、時には近臣に制止される場面もあった。だが、劣勢を逆転することはついにできなかった。昼前には全線に渡って湯瑛軍は崩壊し、軍集団として維持するのはほぼ不可能になっていた。
「もはやこれまで!こうなれば敵将と渡り合い、その首をひとつでも冥土と土産とするまでよ!」
湯瑛は志を同じくする近臣数名と敵軍に向かって突撃した。本来であるならば樹弘がいる蘆明軍に向かえばよかったのだが、もはや方向や面前の敵すらも分かっておらず、闇雲に突っ込むだけであった。
そのような状況で敵将の首など望めるはずもなく、あっと言う間に樹弘軍の雑兵に囲まれて命を落とした。湯瑛などは十数本の槍に突き刺され、その状態でも一歩でも前に歩いて剣を振るったと言われている。その話を湯瑛の首級を目の前にして聞かされた樹弘は、特に感想らしきものを漏らさず、丁重に葬るように指示して終わった。
こうして湯瑛軍は地上から消滅し、相家が抱える戦力はほとんど残されていなかった。そして樹弘が目指すのは、もはや泉春しかなかった。
湯瑛軍を破った樹弘は、文可達軍と相宗如軍を泉春に先行させ、自らが身を置く蘆明軍はしばらく戦場に留まった。補給のために貴輝からやってきた景朱麗と、後方の警戒に務めてきた田員軍を待った。両者とも翌々日には樹弘の前に現れ、戦勝の祝辞を述べた。
「主上、まずは戦勝をお喜び申し上げます。それと後方の憂いはなくなりました。すべて主上に帰属いたしました」
頭を垂れて報告をした田員は、時には武力をもって、ある時は言説をもって説得し、後方にあった敵対勢力をすべて味方に塗り替えてきた。その手腕は剛と柔を併せ持つ田員ならではあった。
「ご苦労様でした。ゆっくりと休んでください、と言いたいのですが、早々に泉春を攻略したいので戦列に加わってください」
承知しました、と田員が下がると、変わって景朱麗が進み出てきた。
「主上、おめでとうございます。これでいよいよ、泉国は名実共に主上を真主として仰ぐことができます」
「ありがとう、朱麗さん。でも、気を抜くわけにはいかない。まだ、泉春は敵の掌中にあるんですから」
樹弘は自らを引き締めるように言った。敵戦力はわずかしか残されていないといえ、泉春の攻略はそう簡単ではないと自戒していた。
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