黄昏の泉〜72〜
日に日に泉春宮から人が消えていった。それは決して比喩表現ではなく、泉春宮に詰めている官僚や警備の兵だけではなく、閣僚や将にも及ぶようになり、昨日話した同僚が翌日にはいなくなっていたというような有様であった。
「嘆かわしい話だ。相家に恩義がある者なら最後まで相家のために尽くすのが武人というものだろう」
人影が少なくなった泉春宮を見渡す湯瑛の肩は怒りに震えていた。泉冬近郊の戦いで樹弘軍に大敗し、自らも矢傷を負った湯瑛は、しばらく安息すべしと相史博から言い渡されてきたが、泉春の現状を知るに及んで我慢できず出仕してきたのである。
「そうであろう。柳興将軍」
湯瑛はやや後ろを歩く柳興に同意を求めた。柳興は、ため息のような曖昧な返事しかできなかった。
「こうして丞相からの召集があっても、早々に駆けつけた将軍は私とそなただけだ」
まったく嘆かわしい、と湯瑛は何度も繰り返した。実のところ、泉春にいる少将以上の武人は、柳興と湯瑛を除けば一人しかない。その一人は病気を理由に出仕しておらず、他の将軍は前線で樹弘軍とにらみ合っていた。
『無茶を言う人だ』
病欠、おそらく仮病だろうが、その一人を除けば各将軍は前線で緊張を強いられている。召集があったからといって前線を離れられるような状況にないのである。
『この人の目も暗い……』
先が見えていなかった。単に猛犬が相家に盲従しているに過ぎないのだ。こういう輩の傍にいれば、己も巻き込まれて馬鹿を見るだけである。
この瞬間、ふと妙案が思い浮かんだ。柳祝を相史博に差し出すことなく、それでいて速やかに樹弘に降るまさに妙案であった。
「丞相。ぜひ私に前線に出るご許可をいただきたい。必ずや樹弘めを戦場の塵といたしましょう」
柳興は相史博に目通りすると、いきなり切り出した。
「ほう。将軍には必勝の手があるというのか?」
「ございます。おそれながら我が娘を使います。私が投降するふりをして我が娘を樹弘の傍にやり、短刀で一刺し……もしくは毒針を使うという手もあります」
この手法なら柳祝を伴って泉春を出られる。出てしまえばこちらのものである。
「娘を……」
相史博は覿面に嫌な顔をした。それはそうであろう。相史博はその娘を傍に欲しているのである。
それでも面と向かって否定しなかったのは、この策略に有効性を認めているからであろう。柳興はそう解釈した。
「柳将軍!それでも貴官は武人か!そのような姑息な手で勝たとして武人として誇れるのか!」
激高したのは湯瑛の方であった。兵士を震え上がらせる怒号と言われているが、柳興はなんとも感じなかった。敵を見れば真正面から戦うことしか能のない猛獣など恐ろしいとも思わなかった。
『知恵なく戦って負けたくせに……』
などと悪態をついてやりたかったが、柳興は我慢した。余計な諍いを起こしたくなかった。
「丞相、ご一考ください。これからどれほど続くか分からぬ戦を一刺しで終えることができるのです」
「丞相!恥ずべき勝利など武人には不要です。正々堂々と決戦すべきです」
「うるさい!その樹弘に策なく敗れ去ったのは何処の誰だ!さがれ!」
相史博の怒号が飛び、湯瑛の顔色を青白くさせた。湯瑛は肩を震わせて柳興をひと睨みして退出していった。
「柳将軍。娘を室に入れる件はどうなるのだ?」
湯瑛が退出するのを見届けた相史博は身を乗り出してきた。そのように問われることは柳興も想定していた。
「ご懸念には及びません。そのために私も樹弘に降ったふりをするのです。娘に危害を与えられることなく、必ずや連れ戻してまいります」
納得いかぬ、と言わんばかりに顔をしかめた相史博は、考えておくとだけ言って柳興を下がらせた。
柳興を下がらせた相史博は、すぐに湯瑛を呼び戻した。先ほど理不尽に叱責された湯瑛は、憤然としながらも戻ってきた。
「さっきはすまなかったな。ああでも言ってお前を追い出さなければ、柳興も本心を話さないと思ったものでな」
「あっ、左様でございますか」
湯瑛はすぐにぱっと気色を改めた。
「それで何かお分かりになられましたか?」
「柳興の奴、娘を餌に樹弘に降ろうとしている」
相史博は本当に柳興の本心を見抜いたわけではなかった。ただ単に柳興が言葉をはぐらかし、娘を室に入れたくないのだと思い、それならば無理やりにでも柳祝を奪おうと決心しただけであった。
「おのれ!あの悪漢!卑怯な手立てだけではなく、丞相をたぶらかすとは!」
いきり立った湯瑛は今にも柳興をひっ捕らえにいかんばかりであった。
「落ち着け、湯瑛。しばらく柳興を泳がす。確たる証拠をつかんだ暁は、お前にすべてを頼むことになる」
「勿論にございます。あの悪漢を串刺しにし、天に捧げたいと思います」
「殊勝な心がけだ。しかし、ひとつ留意して欲しいことがある。柳興の娘だ。娘だけは生きて俺の前につれてくるのだ」
「ははっ!」
湯瑛は迷うことなく応諾した。相家の忠実な猛犬である湯瑛は、まるで疑うということを知らなかった。
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