黄昏の泉~70~

 樹弘は相宗如からの使者を向かえ、降伏を受け入れる旨を告げた。


 「ぜひ相宗如に会いたい。よければ僕が泉冬に赴いてもいい」


 これには使者である備峰が戸惑った。普通、この場合は降将である相宗如が樹弘の陣営を訪れるのが慣例であるが、樹弘にはそのような礼儀は不要であった。


 「それには及びません。宗如の方からこちらに参ります」


 備峰はひとまず樹弘陣営を去り、翌日、相宗如が樹弘の陣営にやって来た。


 『この少年が……』


 樹弘と対面した相宗如は、そのような感想を持った。一見して普通の少年であったが、普通の少年にはない雰囲気を持っていた。


 「この度は降伏を受け入れてくださり、ありがとうございます。泉冬におります将兵、住民については我が命に換えましてもお助けいただきますよう、真主におかれましては……」


 「相宗如殿、そのような言葉は不要です。私は泉冬にいる人達に害意を加えるつもりはないですし、あなたの命を奪うつもりもない」


 面を上げてください、と樹弘は相宗如の手を取って席に着かせた。


 「こちらとしてもよく降ってくださった、と思っています。私は同じ泉国の人の命を極力奪いたくないんです。たとれそれが相家の者であってもです」


 少なくともあなたは救えた、と樹弘は安堵したように言った。樹弘が姉である相蓮子のことを気にかけていたことを改めて思い知らされた。


 「姉のことについては礼を申さなければなりません。丁重に葬ってもらえたようで……」


 「礼を言われることではありません。むしろ蓮子さんを救えなかったことを申し訳なく思っています。蓮子さんとは多少因縁がありまして……」


 樹弘は、蓮子との出会いや泉春での再会、そして樹弘自らが降伏を勧告しに行ったことなど色々と話してくれた。


 「そうですか。いかにも姉らしい……」


 「蓮子さんが僕の陣営にいてくれたら、もっと早い段階で宗如殿と対面できたのでしょうが……」


 「実は姉からこのような手紙が来ていたのです」


 相宗如は懐から相蓮子の手紙を取り出し、樹弘に手渡した。それを一読した樹弘がはらりと涙を流した。


 「僕は馬鹿だ。蓮子さんにもう少し粘り強く説得していたら、あるいは蓮子さんは降伏してくれたかもしれないのに……。いや、そう考えるのは僕の驕りだと蓮子さんに怒られるかな」


 樹弘は本気で相蓮子を救おうとしてくれていた。それだけで相宗如は決心をつけた。


 「真主……いえ、主上とお呼びさせていただきます。ぜひ私を配下にお加えください。姉の意思を継ぎたいと思います」


 相宗如が椅子から降りて膝を突き深く叩頭した。


 「僕はもとよりそのつもりでした。しかし、あなたは実の父や兄と矛を交えることになります。それでもよろしいのですか?」


 「勿論、肉親を裏切ることに抵抗がないわけではありません。しかし、兄である史博は私を見殺しにするだけではなく、攻め滅ぼそうとしました。我が命だけならまだしも、部下や住民達にも害を及ぼそうとしていることについては許すつもりはありません」


 相宗如は覚悟の程を伝えた。樹弘はよく分かったとばかりに深く頷いた。


 「ただ……少し気がかりなことがあります」


 「気がかり?」


 樹弘が手を差し出して着席を促したので、相宗如は一礼して椅子に座った。


 「はい。父である相房のことです。ここ最近、泉春から来る命令書はすべて丞相である相史博の名前になっているのです。命令の種類のよっては丞相の名前が使われることもあるのですが、軍事についてはこれまでは父の名前がほとんどでした」


 「と言うことは相房に何かあったということですか?」


 「あまり考えたくないことですが、史博は自己の権勢を得るためには何事でもする男です」


 「そうだとすれば、泉春の攻略は急がないといけませんね。泉春の住民達にもその刃がいつ向かうか分からないのですから」


 相宗如は、仰るとおりですと頷いた。兄のことではあったが、為政者としての姿勢を相宗如は知らなかった。ただ、平気で相蓮子や自分を見殺しにしようとした相史博が民衆に対して善政を敷くとは思えなかった。


 「朱関。急いで貴輝へと戻ろう。道中で泉春攻略への策を練ってくれ。宗如もぜひ貴輝へご同行していただこう」


 名を呼ばれた相宗如は、嬉々として応諾した。

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