黄昏の泉~55~

 翌日の早朝。甲朱関の予測よりもやや早く、両軍は戦闘状態に入った。


 樹弘軍は北進し、東西に陣を延ばした。これに対して相蓮子軍は南進し、樹弘軍に呼応するように横一列に陣を敷いた。各戦線で戦闘が始まり、当初は互角に進んでいたが、次第に樹弘軍が押され始めた。相蓮子が徐々に軍を中央に集約し始め、樹弘軍の中央を圧迫した。


 「敵将は中央にいる!押し潰せ!」


 相蓮子はそう命じて、樹弘のいる本陣に攻撃を集中させたのである。敵の猛攻に晒されることになった樹弘であったが、顔色ひとつ変えず甲朱関と善後策を協議していた。


 「凌ぎ切りましょう。敵は中央に兵力を集中してきましたので、両翼が手薄になっています。逆に我々は敵の両翼を突破させ、敵集団を包囲しましょう」


 甲朱関はそう提案した。本陣への攻撃を現在の兵力だけで凌ぎ、数的に優位になっている両翼が敵陣を突破して敵軍の後方に回り込むのを待とうというのだ。謂わば樹弘のいる本陣を囮にしようというのである。


 「朱関のよろしいように」


 樹弘はそれだけ言った。


 昼を過ぎた頃ぐらいから敵の猛攻がさらに激しくなってきた。剣戟の音や兵士達の叫び声が聞こえ、流れ矢が本陣にも飛んでくるほどあった。


 「主上。陣を下げましょう。このままではここにも敵が殺到してきます」


 甲朱関がそっと耳打ちした。その瞬間、一本の矢がひゅんと音を立てて樹弘の足元に突き刺さった。


 「主上!お早く」


 樹弘は席を立った。背負っている泉姫の剣を引き抜くと、一歩前に出た。


 「主上。お止めください。今、主上を失ってはこれまでのことが水泡に帰します。ここは大人しくお下がりください」


 「朱関のいうとおりだよ、樹弘」


 景黄鈴は完全に立場を忘れていた。樹弘のことを名で呼び、腕を掴んで話さなかった。しかし、樹弘はその手を振りほどいた。


 「僕は主上などと言われながらも、治績があるわけでもなければ、才も徳もない。あるのは兵と供にあり、勇気を示すことだけだ」


 樹弘の剣幕に、甲朱関も景黄鈴も黙ってしまった。樹弘がここまで険しい表情で、甲朱関達に意見したことはなかった。


 「反撃するぞ!勇がある者は続け!」


 樹弘は剣を振りかざすと前線へと駆け出した。


 「主上……。黄鈴、頼む」


 「分かっている。蒼葉姉さんをお願い。者共、主上に続け!」


 景黄鈴が樹弘の後に続くと、唖然として見守っていた守備兵達も我に帰ったように動き出した。


 本陣の近くで戦っていた樹弘軍の兵士達は、突然自分達の主君が前線に現れたことによって活気を取り戻した。樹弘自身も剣を振るって敵をなぎ倒していった。これにより戦局の優劣が逆転した。樹弘軍中央部が相蓮子軍を押し返し始めたのである。


 時を同じくして、樹弘軍右翼にいた景朱麗の部隊が敵軍を撃破し、相蓮子軍の後方に進出した。樹弘軍は包囲の形を作りつつあった。


 勝敗は決した。半包囲という形ではあったが、中央の樹弘軍本陣の動きも活発であり、相蓮子軍は守勢に立っての戦線維持が精一杯であった。やがてそれも限界に達し、夕暮れ時には相蓮子軍は半壊の状態であった。


 この状況を自軍本陣にあって相蓮子は歯を食いしばりながら耐えていた。


 「蓮子様。敵の包囲はまだ完成していません。今のうちに撤退しましょう」


 側近がそう進言してきても、相蓮子は何も言わず、じっと前方を眺めていた。樹弘軍の姿がすぐそこに見えていた。


 『私もここまでだな……』


 負けるつもりも死ぬつもりもなかったが、どうやら相蓮子という女性の命運は決したようであった。やはり真主には勝てぬということなのだろう。一層のこと、敵陣に突入して壮絶な戦死でも遂げようかと思ったほどであった。


 「蓮子様!このままでは兵士達もむざむざと死にゆくだけです!」


 側近の進言が悲鳴になった。兵士達のことを考えれば相蓮子は決断をせねばならなかった。ちょうど日が沈み、空が暗くなり始めていた。撤退するには今しかなかった。


 「夜陰に紛れて撤退する……」


 相蓮子は苦しげに命令を発した。




 相蓮子軍が潰走を始めるや否や、樹弘は甲朱関を通じて命令を発した。


 『相蓮子を生きて捕らえよ。生きて僕の前に連れてきた者には一邑を授けるぞ』


 一邑は最小の行政単位ではあるが、一兵卒からすると大きな報酬である。すでに夜となっていたても、樹弘軍の兵士達は争うようにして相蓮子の姿を探した。


 一方の相蓮子は北へと逃れていた。付き従う側近はわずかに三名。戦場を離れた時は二十名はいたはずである。体力が尽きて脱落したか、相蓮子に付き従っても未来がないと悟ったのか、多く者が気がつけばいなくなっていた。


 相蓮子も体力的には限界であった。しかし足取りはまだしっかりとしていて、前途に希望をもっていた。


 「泉春は駄目だな。あの兄貴が私を受けれ入れるとも思えない。宗如の所へ行こう」


 相蓮子はそう言って自己と側近達を励ました。だが、相宗如のいる場所までどれほどあるというのだろうか。泉春よりはるかに遠いのである。現状で辿り着けるとはとても思えなかった。


 「蓮子様。意地を捨て史博様に助けを求めましょう。あるいは降伏を……」


 側近の一人が足を止めた。これ以上は歩きたくないと言わんばかりであった。


 「あんな兄貴に頭を下げられるか!降伏も論外だ。今更樹弘に合わせる顔がない」


 それはもはや相蓮子の身勝手な意地でしかなかった。側近達は相蓮子という女性に、相家の娘という地位的存在の他に、一個人としての魅力も感じて従ってきた。彼女の身勝手さも、その魅力のひとつとして受け入れてきたが、事が最悪の事態に至っては不快以外の何ものでもなかった。


 「もはやこれまででございます」


 側近達は視線を交わして剣を引き抜いた。相蓮子が何事かと思った時には、剣先が彼女の腹部を貫いていた。


 「馬鹿者が……」


 それが相蓮子が最後に発した言葉であった。崩れ落ちた相蓮子の遺骸は、すぐさま胴と首が切り離された。

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