黄昏の泉~38~

 樹弘達の旅は無事に続いた。最も懸念されたのは古沃近辺の相蓮子の勢力圏に入ってのことであったが、兵士達に遭遇することはなかった。


 「古沃が近いとなると、田員殿のことが気になる」


 景朱麗は荷台から顔を覗かせた。遥か遠くには古沃の城壁が見えていた。


 「でも、あまり近寄らない方がいいですよ」


 湖畔での一件以来、樹弘と景朱麗の関係は従来どおりに戻っていた。景秀は当初はあまりいい顔をしなかったが、今では諦めたのか何も言わなかった。


 「様子を見てまいりましょうか?」


 無宇は相変わらず丁重であった。彼は相手が誰であってもこの様子なのだろう。


 「いや、このまま直進しよう。とりあえずは元亀様達と合流しよう。そこには田碧もいるはずだから、何か知っているだろう。それでいいな、樹君」


 但し、景朱麗は独断で物事を進めるのをやめた。些細なことでも樹弘に意見を求めるようになっていた。


 「はい。でも、元亀様達はどこにいるのでしょう?」


 「田員殿は田碧には静国へ行けと言っていたが……」


 「静国ならば国都へ参りましょう。あそこには亡命した泉国の旧臣が多いはずです」


 そう教えてくれたのは景弱であった。


 「静国か。代々泉国と静国とは友好関係にあった。行ってみよう」


 景朱麗は確認するように樹弘を見た。樹弘としても依存はなかったので頷いてみせた。




 泉国の南方は、静国と伯国に接している。ちょうど泉国と静国の国境線の中間に伯国があることになる。静国の国都へは伯国を通ると近道になるのだが、あえて伯国を迂回して直接静国へと入る経路を選んだ。それには多少の理由があった。


 「伯は我が泉国にとっては仇敵だ」


 景朱麗は端的に説明した。伯国は義舜から始まる七国以外の国である。百年ほど前に泉国から分離する形で独立したため、その経緯からして泉国と伯国は犬猿の仲であった。だから泉国の人臣は『伯国』とは言わず単に『伯』と呼称していた。


 「伯の地を踏むのも嫌というものです」


 景弱はそう付け加えた。この辺りは市井で暮らしてきた樹弘には分からぬ感覚であった。


 時間はかかったが、伯国を避けて通り静国に入ることができた。樹弘が驚いたのは静国に入るのに、関所があったものの、手形などを必要としないことであった。荷台を検められることもなく、通過することができた。


 「大丈夫なんですか?」


 樹弘は荷台の方に振り返った。景秀は随分と調子が良くなってきたのか、この頃には起き上がっていた。這うようにして樹弘の方に寄ってくると、小さく叩頭し、口を開いた。


 「それはまさに静国がよく治まっている証拠です。治安が良いため、国境を越えて悪さをする悪党もいないのです」


 景秀は教え諭すように言った。景秀と話す時は万事この調子であり、樹弘は多少閉口しながらもきちんと耳を傾けた。


 「関所がないことで商売の自由も広がったということです。静国の現在の興隆があるのもそのためと言っても過言ではありません」


 景秀は樹弘に対してあくまでも丁重であった。娘である景朱麗が臣下のよう接しないことへのあてつけのようであった。それが樹弘には面白かった。


 『頑固なことろは朱麗様そっくりだな』


 さらに面白いのは当の景朱麗が父のあてつけをまったくあてつけだと感じていないことであった。


 「それで景秀様。そのような政策を実行なされる静公とはどのような人物なのでしょうか?」


 そのように景秀に質問をむける樹弘も、我ながら頑固だと思った。樹弘は景秀に対して敬称を省くことをやめるつもりはなかった。景秀はわずかに心外そうな表情をした。


 「現在の静公は、翼公と並んで名君と言うべきでしょう。いえ、かねてより歴代の静公には暗君なしと言われています」


 景秀はいかに歴代の静公が優れていたかを語った。学のない樹弘からすると、意味の分からない言葉も多く、話の半分も理解できなかった。それでも現在の静公には会ってみたいものだとおぼろげながらに思った。




 静国内に入って数日経過した。相房軍に追われる心配がなくなって気が緩んだわけではないだろうが、静国国都を目前にして景秀の状態が急変した。昨日まで折を見ては樹弘に訓戒を垂れてきた景秀であったが、急に多量の発汗が止まらず上半身を起こすこともできなくなっていた。


 「近くに集落はないか?ひとまず父上を休ませて医師に診せないと……」


 景朱麗は荷台から顔を出して集落を探した。樹弘も目をさらにして探したが、一面の平原が続くだけで建物の影も見えなかった。


 「いえ、このまま国都を目指しましょう。この辺にはまともな集落がありませんから、ろくな医師もおりますまい」


 答えたのは無宇であった。心なしか馬車の速度が先ほどからあがっているような気がした。


 「私が先行しましょう。少しでも景秀様を受けれる体制を整えてまいります」


 景弱が窺うように樹弘を見た。樹弘が頷いたので、景弱は馬に鞭をいれて先を急いだ。


 「無宇さん。国都まではどのくらいですか?」


 「二舎ほどかと」


 一舎とは軍隊が一日で行軍できる距離である。ようするに二日はかかるということである。


 「急いでください」


 「御意です」


 樹弘は荷台に移り、景秀の枕頭に座った。


 「景秀様。頑張ってください。もうすぐ静国の国都です」


 「勿論ですとも。ようやく主と出会えたのです。丞相として死ぬわけにはいきません……」


 口調ははっきりとしていたが、顔は青白かった。樹弘は主と呼ばれても抗弁しなかった。

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