黄昏の泉~13~

 夜遅く樹弘達は麦楊に到着した。景蒼葉とは街の入口で別れ、樹弘は甲元亀の家に向かった。甲元亀は起きて樹弘達のことを待っていた。前日に厳侑が早馬にて樹弘のことを知らせてくれていたのだった。


 「ご苦労であったな。儂が甲元亀だ」


 厳侑のいうとおり、甲元亀は気さくな老人で、かつての政府の高官として偉ぶったところもなく、街の好々爺といった感じであった。


 「樹弘です」


 樹弘は、この老人ならば下男として働いてもやっていけそうな気がした。


 「おおよそのことは厳侑から聞いておるぞ。まぁ、厳侑が薦めるのであれば間違いなかろう。明日からしっかり働いてくれ」


 甲元亀の方でも樹弘のことをあっさりと認めてくれたようだった。


 「それにしても蘆明の奴には呆れて物も言えんな。馬鹿者とはあいつのことじゃ」


 「甲様は蘆明のことを存じていたのですか?」


 「直接に会ったことはないがな。士会に明という名の息子がいるとは聞いていた。それにしても盗賊の真似をするとは……。泉下で士会が泣いておるわ」


 「甲様。こういう聞き方をすることをお許しください。公子淡が立ったとすれば、甲様はその下に馳せ参じようとはされないのですか?」


 甲元亀は一瞬目を見開いたが、すぐにかかっと笑った。


 「なかなか鋭い少年じゃ。確かに公子がお立ちになられたのなら、不肖の身ながら少しでもお役に立とうと馳せ参じただろうな。しかし、その公子淡は間違いなく偽者であろう」


 断言してもよい、と甲元亀は言った。


 「それはどういう……」


 「もし本当の公子がお立ちになれば、かつての泉国の重鎮、高官達に檄文が回ってくるはずだ。儂を含めてな」


 なるほど、と樹弘は思った。公子が本物であれば、かつての泉公の周囲にいた者達を集めるだろう。偽者となれば、所在どころか名さえ知らぬはずである。


 「しかし、甲様。あなたのような人がどうして泉春に近い場所に折られるのですか?先ほどはかなり危ういことを仰っていましたが、相公の耳目もありましょうに」


 樹弘がそう疑問を呈すると、甲元亀は再び笑った。


 「気に入ったぞ、樹君。君はなかなか才知に溢れている。そうさな……我が家で仕事するとなれば景家のことを知っておいた方がいいだろうな」




 景家は泉国の建国以来、国家の重職を務めてきた一家である。丞相も幾度となく輩出してきた。相房によって弑逆された泉弁の時代の丞相も景家の者であった。名は景秀といった。


 「蒼葉様達の父君であった方だ。非常に有能で、よく泉公を支えておられました。しかし、相房が実権を握ると拘束され、今は泉春のどこかで幽閉されておられる」


 「殺されなかったのですか?」


 驚きであった。相房が仮主となり、かつての権勢家達は殺害されたものばかりだと思っていた。


 「これには少々事情があってな」


 景政という老人がいた。景秀が景家の本家とすれば、景政は分家であった。そのため日の目を見ず、本家からも冷遇されていた。そのため景政は景秀とは距離を取っており、寧ろ相房に近い立場にあった。相房も分家とはいえ景家の者を近づけておいて損はないと考え、景政と昵懇になっていった。


 そして、相房が泉弁を弑逆して国主となった時、景政を丞相にしようとした。これに対して景政は、


 『丞相の地位は過分であります。その地位を差し出しますので、ぜひとも景秀と本家の方々の罪を減じていただけないでしょうか』


 景政は本家筋の助命を請うたのであった。相房は意外に思ったであろう。本家から冷遇されていたのに、今となって景政は丞相の地位を捨ててまで本家のために奔走したのである。


 相房は景政の助命懇願を受け入れた。景秀は軟禁処分とし、景家に連なる者は氏を免れたものの、泉春から放逐されたのであった。


 「では、蒼葉様が生きておられるのも景政という方のおかげということですか?」


 「そういうことになるかな。儂のような人物が泉春の近くに住めるのも景政様のおかげというわけだが……」


 警備は厳しい、と甲元亀は続けた。


 「確かに街に入ってくる時に馬車の中を検められました」


 「それでも最近は緩くなったものじゃ。以前ならば樹弘の身元も検められただろう。二十名近くの兵士が常駐しておる」


 「二十名も……」


 「蒼葉様達もここに住んでおる。まぁ危険分子をまとめておいて監視したいのだろう。それに儂らを処分したい場合は一気にできるということでもある」


 処分。その言葉の生々しさに、樹弘は身を硬くした。それは間違いなく生死に関わることであった。


 「ははっ。当面相房もそこまでのことはせぬであろうよ。だが、何が起こるか分からんからな。そのための警護役も必要というわけじゃ」


 要するに樹弘の役割は単なる下働きだけではなく、甲元亀という要人の警護役もあるということであった。

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