黄昏の泉~9~
老人を丁重に埋葬した樹弘は、馬車に乗って北へ向かった。とりあえず、荷馬車一台分だけでも泉春に届けようと思ったのである。荷物は蘆明が言ったように書物ばかりであった。字が読めぬ樹弘にはどういう書物がさっぱり分からなかったが、商いになる以上、相応の価値があるのだろう。
「これは売れないな……」
売ろうにも価値は分からないし、老人にとっての商売の糧であるから、やはり売るわけにもいかなかった。馬車を止めて荷台を物色してみると、書物の他に砂金も少々あった。申し訳ないが、これを路銀にさせてもらうことにした。
一人となった樹弘の旅は何事もなく順調に進んだ。一人であるため夜営は避け、宿場町があれば必ずそこで宿泊した。金がかかり、時間もかかるが、確実で安全な方法であった。
桃厘を出て七日経った。順調であるならば、泉春まではあと少しというところであった。日が随分と傾いてきたので、この日も無理することなく宿泊できる集落を探した。ちょうど商隊と行き違ったので聞いてみると、その商人は丁寧に教えてくれた。
「ここから少し行くとそこそこ大きい宿場があるよ。でも、娼窟だぜ」
娼窟がどういう場所か一応理解していた。樹弘も年頃の男児である以上、女性に興味がないわけではない。しかし、金を払って性欲を発散させるという行いに後ろめたさを感じる年頃でもあった。
「普通の宿はありますか?」
「あるにはあるよ。でも折角の娼窟だ。楽しみたまえ」
商人はそう笑って、樹弘が来た道を進んでいった。樹弘も馬車を進めた。
しばらくすると、確かに集落が見えてきた。城壁はなく、柵で囲まれた程度の集落であったが、建造物は多そうであった。馬車を停留場に止め集落の中に入ると、男女の喧騒が樹弘を出迎え、建物から漏れてくる桃色や赤色の燈火が闇に沈みかけている空を煌煌と照らした。
ひとまず普通に泊まれる宿を捜し当て、宿泊の手続きを終えた樹弘は、夕食を取るために外に出た。
改めて見ると、小さいながらも賑やかな集落であった。宿の主人曰く、約三十軒の家屋があり、そのうちの二十近くが娼館であるらしい。確かに至る所で、露出の高い衣服を見にまとった女性が店の軒先に立って行き交う男達に誘いの言葉を投げかけていた。
言わずもがな樹弘もその対象であった。ただ、あまり興味のない樹弘は、愛想笑いを浮かべながらちらりと見て楽しむ程度であった。集落を一回りして、本格的に夕食を食べられる場所を探そうと思った時であった。集落の入口付近から異質な喧騒が聞こえてきた。男女の嬌声というよりも、今にも喧嘩でも始めそうな男共の怒声であった。嫌な予感をしながらも興味を持った樹弘は、声の方向へ向かった。すでに人だかりができていた。
「ここの代表者を連れて来い」
樹弘が人垣から顔を覗かせると、物騒ななりをした男達が十名ほどいた。中には騎馬に乗っている者もいて、その馬には緑色の旗が括りつけられていた。
「また緑山の奴らか……」
隣にいた男が唸った。
「緑山?緑山党ですか?」
樹弘は思わず聞き返した。
「ああ。ここ最近、よくやってきて無理難題を吹っかけていきやがるんだ。今までは三下みたいな連中だったから自警団が追い返していたけど……」
確かに賊にしては武装が整いすぎているようだ。ひとり馬上にある頭らしき男は鉄製の鎧を身につけていた。
「賊め!何度来ても同じだ!出て行け!」
緑山党に対して、怯むことなく堂々と言い返す男がいた。体格のいい若者であった。
「あれが自警団の団長、雲札だ」
と先ほどの男が教えてくれた。
「賊だと?そんなこと言っていいのか?我ら緑山は、貴輝で決起された公子淡様に合流したのだぞ。我らは義軍だ」
頭らしい男が自慢げに言い放った。ここに来て公子淡の名前を聞くことになろうとは思わなかった。蘆明もこの賊と同じ仲間になったわけかと思うと、公子淡がどのような人物なのかおおよそ察することができた。
「分かったら、金を差し出すか、女を差し出せ。今のうちに公子淡様の義挙に加わっておけば、将来のためになるぞ」
「うるさい!本当に泉家の公子なら、こんなゆすりたかりなんかするものか!」
雲札は言い返した。それにしても雲札は度胸がよかった。彼生来の性格なのか、それともこのようなことは日常茶飯事なのだろうか。
「おのれ!言わせておけば!」
やってしまえ、と賊の頭が号令すると、賊達が剣を抜き、槍を構えた。それにあわせて雲札達も応戦の構えをみせた。
緑山党と自警団の乱闘が始まった。数の上では自警団の方が上であった。彼らは遠くから弩や弓を使って矢を放って賊達を牽制しつつ、雲札達が切り込んでいった。賊達はじりじりと押されていった。
『手助けするまでもないか……』
背中の剣に手をかけかけた樹弘は手を戻した。いずれ賊が撤退するだろうと思い、野次馬の群れから去ろうとした時であった。子供の悲鳴が聞こえた。
「おら!自警団どもは武器を捨てろ!さもないとこいつの命はないぞ」
賊のひとりが小さな女の子を抱きかかえ、剣の切っ先を首筋に突きつけていた。野次馬の群れから浚ったのだろう。自警団の動きがぴたりと止まった。このままでは自警団は一方的にやられてしまう。そう思った瞬間、樹弘は剣にてをかけていた。
『剣よ。力があるのならもう一度力を貸してくれ』
『勿論です。我が君が望まれるのなら何度でも』
剣がそのようなに答えたような気がした。剣を抜くや否や、樹弘は走り出していた。
急激に周りの世界が遅くなった。誰もが樹弘が駆け出していることなど気づいておらず、瞬く間に女の子を抱きかかえている賊の目の前にいた。樹弘は女の子を賊の手から奪うと、賊の腹を思い切り蹴飛ばした。
「ぐはははっ」
賊が声を上げ、地面をのた打ち回っていると、時間が動き出した。誰しもが何が起こったのか瞬時には理科できていないだろう。
「女の子は解放した。怯むな!」
樹弘が叫んだ。それを弾みにして、自警団が再び賊に対して攻勢を始めた。樹弘もその中に入った。極力、致命傷にならぬように手や足を狙って斬りつけ、賊を戦えないようにしていった。
「ひ、引くぞ!」
やがて形勢が圧倒的に不利になると、賊は撤退していった。ふうとひとつ大きく息を吐いた樹弘は剣を納めた。
「あの……そこの方」
同じく武器を納めた雲札がやってきた。
「助けていただきまことにありがとうございました。私は自警団の団長をしている雲札と申します。いやぁ、それにしても見事な剣捌きでした」
雲札の態度と言葉は丁重で、好感を持てる相手であった。
「樹弘です。泉春まで旅をしておりまして……」
「それはそれは……。今夜お泊りでしたら、ぜひお礼をさせてください」
「は、はぁ……」
雲札は強引に樹弘の手を引っ張っていった。
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