第86話 こんな筈じゃ…… 遠ざかるハルカ

 暑い。ヘルメットから湯気が立っているのではないかと思うぐらい暑い。そんな中をトシヤは黙々とペダルを回し続ける。もちろんギアはインナーローだから回す割にあまり前に進まない。

汗が鼻からトップチューブに落ちた。少々の汗なら鼻から唇を伝い、そして顎から落ちる。鼻から汗が滴り落ちるという事はそれだけ大粒の汗が大量に出ているという事だろう。


 そんなトシヤの横を一台のロードバイクが追い抜いた。マサオか? いやいや、そんな事があるワケが無い。トシヤ達より後から上り始めたローディーだ。ちなみにトシヤ達が上り始めてから10分弱、このローディーはかなりのハイペースで上っている。そしてそのローディーは軽快にペダルを回してハルカも軽くパスした。


「うっわー、あの人速ぇ!」


 トシヤは圧倒的な速度差に舌を巻いた。ロードバイクでのヒルクライムだ、絶対的な速度はそんなに出ていない。せいぜい時速15キロ、秒速にすると4キロちょい。100メートル走ると25秒かかる計算になる。大した事ないスピードだと思う人も多いかもしれないが、斜度10%の坂道を時速15キロで走る事なんてかなりトレーニングを積んだ一部の者だけにしか不可能だ。ちなみにトシヤ達は時速一桁でゆっくり上っている……と言うかゆっくりとしか上れない。


「今は速さを求めてるワケじゃ無いでしょ! ゆっくりで良いから確実に上りましょ」


 トシヤの声が聞こえたのか、ハルカが振り返って言った。そう、トシヤはまだ『足着き無し』で上る事が目標なのだ。


 などと言っているうちにようやく第二ヘアピンが見えてきた。


「コレ越えたら少し楽になるわよ」


 ハルカがチラッと振り返って弾んだ声を上げた。だが、もちろんトシヤは知っている。ハルカの言う通り第二ヘアピンを抜ければ確かに勾配が少し緩むのだが、少し走ればまたキツくなる事を。


 そしてココはマサオにとっても正念場だ。先週は第二ヘアピンを抜けた所で力尽きた。だが、今日は先週とは違う。先週は一度第一ヘアピンまで上ってからの再スタートだったので既に足を少し使ってしまっていた。それに何と言っても先週は後ろにルナは居なかったのだ。足はまだ残っているし、今日はルナが後ろを走っている。正直言ってしんどいが、こんな所で足を着けるワケが無いのだ。


 ハルカを先頭に四人が第二ヘアピンをクリアすると斜度が少し緩くなった。ココでクライマーには二つの選択肢が与えられる。


 ① タイムを意識してペースアップする

 ② そしてもう一つはペースをキープして足を休める


 もちろんハルカが選んだのは②だ。この辺りは斜度が5%前後、今までの約半分となる。だが足を休められる区間は短く、すぐに斜度は上がり、また10%前後となってしまう。トシヤはハルカのお尻、いや背中を見ながら黙々と上り続ける。


 暑い


 喉が渇いた


 呼吸が苦しい


 ペダルを回す足が重い


 それが夏のヒルクライムだ。しかし泣き言を言っている場合では無い。これぐらいのしんどさは承知の上で上っているのだから。


「もーちょい、もーちょいだ」


 トシヤは自分に言い聞かせた。もちろんまだかなりの距離が残っているのはわかっている。しかしそうでも思っていないと心が折れそうになる。


「くそっ、何か先週よりしんどい気がする……」


 トシヤが呟いた。一度上手くいったからと言って次もまた上手くいくとは限らない。寧ろ上手くいった時の次って何故か上手くいかない事の方が多い様な気がする。まあ、人間なんてそんなモノだ。


「こんな筈じゃ……」


 トシヤの顔に焦りの色が浮かんだ。ハルカの背中を追おうとするが、ペダルが思うように回せずハルカとの距離が少し離れてしまった。ココで千切られるワケにはいかない。もし千切られてしまったら心が折れてしまうだろう。


「今日はハルカと一緒に足着き無しで渋山峠を上りきるんだ」という思いだけがトシヤの足を動かす。しかし『思い』や『気持ち』だけでどうにかなるほどヒルクライムは甘く無い。

少しずつ遠くなって行くハルカの背中にトシヤは顔を歪め、俯いてしまった。


「ダメだな……今日は……」


 弱音が溢れ出たが、トシヤはすぐに顔を上げ、遠ざかるハルカの背中を見つめた。


「ダメだダメだ、前を見なけりゃ前に進めない」


 自分に言い聞かせる様に呟いたトシヤだったが、だからと言ってペダルが軽くなるワケでも背中に羽根が生えるワケでも無い。ハルカとの距離は益々開き、ハルカの背中は数秒後にはカーブの向こうに消えてしまった。


「……ダメかな、やっぱり」


 トシヤは肩を落とし、項垂れてしまった。

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