第56話 ハンドルを下げてから初めてのダウンヒルは同じコースでもちょっと怖い

 だが、トシヤはハルカの事ばかりを考えている場合では無かった。上りでは平気だったのだが、下りでは下げたハンドルが凄く低く感じ、初めてリアクトで下りを走った時の前につんのめってしまう様な感覚が蘇って来たのだ。よく「下りでは空気抵抗が減らす為、また、ブレーキを軽い力で効かせる事が出来る下ハンドルを持て」と言われるが、トシヤが握っているのはブラケットの部分だ。今のトシヤには『下ハンドル』など低過ぎて、飾り以外の何物でも無い。


 モヤモヤしながら、ハンドルの低さに戸惑いながら峠を下っているうちに『最終ヘアピン』が迫って来た。『最終』と言うのはヒルクライムのスタート地点から見ての事なので、山頂から下りて来た場合は最初のヘアピンカーブだ。安全マージンを取っているとはいえ、結構なスピードが出ている。ブレーキをかけたトシヤは前方に放り出されそうな錯覚に陥った。実際は前に荷重が移り、ちょっとリアが浮いた程度なのだが、それでもリアタイヤは簡単にロックしてしまう。トシヤは慌てて腰を後方に引き、荷重を後ろに移してリアクトの挙動を制御し、何とか無事に最終ヘアピンをクリアした。


「うわー、焦ったぜ」


 トシヤが呟くが、ダウンヒルはまだまだ続く。ハンドルをちょっと下げただけでこんなに変わるものなのかと改めて感じながらトシヤは必死にハルカの後を追った。


 マサオもやはりハンドルを下げた事による姿勢の変化におっかなびっくりでトシヤを追いかけていたが、目の前でトシヤのリアクトのリアタイヤが浮きかけたのを見てしまってダウンヒルに対する恐怖感が一気に高まった。


「うわっ、危ねぇ! トシヤのヤツ大丈夫かよ……」


 呟いたマサオだが、トシヤの心配をしている場合では無い。『最終ヘアピン』はマサオにも迫っているのだ。


「こんな感じか?」


 マサオはトシヤの二の舞にならない様、思いっきり腰を後ろに引いてリアタイヤに荷重を掛け、ブレーキレバーを握る手に力を込めた。その甲斐あってマサオのプリンスはリアが浮く事も無く安定した姿勢でスピードを落とし、何とか無事に最終ヘアピンをクリアしたが、減速し過ぎた様でトシヤとの距離がかなり空いてしまった。もちろんトシヤもハルカもペダルを回してはいない。それだけ下り勾配がキツいという事だ。

 最終ヘアピンをクリアしたマサオがブレーキをリリースするとスピードが一気に上がる。慌ててまたブレーキを緩く掛けながらスピードを落としながらマサオは思った。


「よくこんな坂、上ったもんだな」


 後ろにはルナが走っている筈だが、振り向く余裕などマサオには無い。流れる景色の中、重力に引かれて加速しようとするプリンスを宥める様にブレーキレバーを握り、次々と現れるカーブを一つ一つ確実に抜け、トシヤの後を追った。


 ヒルクライムでは足と体力を削られるが、ダウンヒルでは神経と握力が削られる。トシヤとマサオの腕がパンパンになり握力が落ちてきた頃、ようやく道幅が広くなり、大きく右に曲がり込んでいるのが見えた。


「第一ヘアピンだ」


 ここまで来ればあともう少しだ。ほっとしたトシヤが呟いた時にはハルカは既に第一ヘアピンへと侵入していた。トシヤもそれに続き第一ヘアピンに飛び込んだ。


「前はココで一気に離されたんだよな……」


 トシヤが思い出した時にはハルカはコーナリングを終えてブレーキをリリース、見る見るうちに離れていった。


「またかよ、ハルカちゃん……」


 トシヤも第一ヘアピンから脱出、ブレーキをリリースしてスピードを上げるが、この差はハルカがスピードを落とすか、トシヤがペダルを回して更に加速するかしかしない限り縮まらない。もちろんトシヤにペダルを回して加速する度胸などある筈も無く、大差が付いたままトシヤとハルカはダウンヒルのゴールを迎えた。


「ふふっ、まだまだね」


 信号が青だったので、交差点を渡った所で止まったハルカが笑った。別にレースをしていた訳では無いし、キャリアが違うのだから仕方が無いのだが、上りでも下りでも圧倒的な差を見せつけられるとやはり悔しく、そして悲しくなるのが男と言う生き物。トシヤは苦い顔で答えた。


「そうだね。俺なんか全然ダメだな……」


 トシヤが笑いながら明るい声で応えてくれるとばかり思っていたハルカは思いがけないトシヤの反応に慌てた。


「ち、違うのよ。そんなつもりじゃ……ほら、マサオ君だってまだまだだし。ねっ?」


 トシヤを気遣う様にハルカが言うが、トシヤは「そうじゃ無い」とばかりに首を横に振った。


「マサオは関係無いよ。俺がハルカちゃんに早く追いつきたいだけなんだから」


 トシヤの言葉を聞いてハルカは思いっきりドキっとしてしまった。


――私に追いつきたいって? それって、私と一緒に走りたいって事だよね? ――


 トシヤにそんな大胆な意思表示など出来るわけが無い。乙女スイッチが入ったハルカの都合の良い解釈でしか無いのだが、トシヤにとって都合が良い解釈でもある。もちろんトシヤはハルカがそんな勘違いをしているとは夢にも思っていない。


「だからさ、俺、頑張るから待っててくれよな」


 なんかもう、プロポーズ前に転勤が決まった彼氏みたいな事を言うトシヤにハルカの顔が赤くなった。


「ま、待っててあげるから早く追いついてよね」


「うん、楽しみにしててくれよな」


 トシヤは答えたが、ハルカが顔を赤くしている事に気付いていないのだろうか? だとしたら非常に残念な男だ。まあ、彼女居ない歴=年齢なのだから仕方が無いのかもしれないけれども。


 そんなうちにダウンヒルを終えたマサオとルナが信号に引っかかったらしく、交差点の向こうから叫んでいるマサオの声が聞こえた。


「うぉーい、待たせたなー!」


『待たせた』と言っても上りの時とは違い、時間差はほんの数分でしか無い。トシヤはマサオの声に大きく手を振って答えた。


「気にすんな、そんなに待ってねーよ!」


 だが、治まらないのはハルカだ。せっかくトシヤと何か良い雰囲気になりそうな感じだったのに……かと言って「遅い!」とか「いつまで待たせるのよ!」なんて言う訳にはいかない。なにしろトシヤが「あんまり待ってない」と言ってしまっているのだ。


「まあ、マサオ君にしちゃ上出来ってトコかしらね」


 そう言うのが精一杯だった。そんなハルカの気も知らずトシヤは信号が変わって交差点を渡って来たマサオとルナに言った。


「早くコンビニ行こうぜ。もう喉、からっからだ」


 トシヤは大チャンスを逃した事に気付いていない? いや、トシヤはトシヤでほっとしていた。実はトシヤは自分の言葉でハルカが顔を赤くした事に気付き、どう対処すれば良いかわからず困っていたのだ。そこにマサオの声が聞こえたものだから、オーバーアクションでマサオに手を振って応えたのだった。トシヤはロードバイクよりも女心を勉強した方が良いと言えよう。


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