第14話 ヒルクライムはマジで辛い

 そして日曜日の朝六時半、トシヤは気合十分にリアクトに跨った。


「今日は峠を制覇してやるぜ」


 マサオとの約束は十時、あと三時間以上ある。そう、トシヤはマサオと走る前に峠にアタックしようとしているのだ。ボトルにはスポーツドリンクを半分程入れて凍らせてある。もっともこの暑さだ、すぐに溶けて温くなってしまうだろうが。

 体力を温存する為に抑え目にペダルを回す事数十分、峠までの道を一人で走るトシヤは初めて走った時は峠を避けて右に曲がった所を左に曲がり、峠の入口、クライマー達のスタート地点に到着した。


「ココで二人に出会ったんだよな」


 交差点の端にメリダを停めたトシヤは呟くとボトルに手を伸ばし、少し溶けて飲み頃になったスポーツドリンクを口に含んだ。そしてボトルをケージに戻し、深呼吸を一つしたトシヤはクリートを嵌め、ゆっくりとスタートした。


「自分を知って、ペースを上げすぎない様に……ってか」


 この峠はいきなり結構な上りから始まる。だが、まだ足に余裕のあるトシヤとしては何と言う事は無い。むしろもっと速く走りたいという気持ちですらある。だが、そんな気持ちを抑え、トシヤはゆっくりと坂を上って行く。だがそんな余裕も長くはもたなかった。延々と続く上り坂に足を削られ、みるみるうちにスピードが落ちてくる。


「こういう時は『休むダンシング』だ」


 トシヤは呟くとサドルから腰を上げ、ギヤを二つ上げた。


『ダンシング』簡単に言えば『立ち漕ぎ』だ。座ってペダルを回す『シッティング』に対し、体重を利用してペダルを回す『休むダンシング』で足を温存しようと考えたのだが、知っているのと出来るのとは全然違う。何しろやり方をネットで見て、初めて実践しようとしているのだから上手く出来る訳が無い。休むどころかサドルから腰を浮かした分、余計に無駄な力を使うハメになり、逆に足の負担が大きくなってしまった。


「あれっ、おかしいな。コレ、余計にしんどいじゃねぇか!」


 後悔したのも束の間、太腿の筋肉が限界を迎え、サドルに腰を落としてペダルを回そうとするが、そんな力などもはやトシヤの足には残っていなかった。


「うわっ、やべっ!」


 あっけなく失速してしまったリアクトはフラフラと左右にフラつき、トシヤは反射的に左足のクリートをペダルから外し、地面に足を着き、なんとかコケるのだけは回避した。


「くっそー、まだ峠に入ったばかりだってのに……」


 トシヤは口惜しそうに呻いた。足は重く、呼吸も荒くなってしまっている。しかし、まだその目は死んではいない。


「同じ高校生だ、二人に出来て俺に出来ない筈は無い!」


 自分に言い聞かせてトシヤはまたスタートしたが、気合と根性だけでどうにかなるものでは無い、数十メートルも進めばまた足の筋肉が悲鳴を上げ、呼吸が苦しくなってくる。


「止まるか、止まってたまるか!」


 意地になってペダルを回すトシヤだったがそんなものが長く続く訳も無く、また足を着いてしまった。


「こりゃ、やっぱりダメかな……」


 トシヤが少し弱音を吐いた。しかしすぐに頭を大きく振って思い直し、とりあえずの目標を定めた。


「せめて前に来た時よりは上に上ろう」


 前回は第一ヘアピンで心が折れ、引き返した。ならば今日はそこよりは少しでも先まで上る。次は今日よりもっと先へ、そしてその次は更に先へ。それを繰り返していけばいつかは峠を上りきる事が出来る。そう考えたトシヤは重いペダルを踏み、力の限り回した。しかし、ものの数十メートルで足が止まってしまう。


 そんな事を何度繰り返した事だろう、憔悴しきったトシヤの目に忘れられない景色が飛び込んできた。道が大きく左に弧を描きながら上っている。そう、この峠の最初の難関と言われている通称『第一ヘアピン』だ。もっとも今のトシヤにとってはここまで来るだけでも十分難関なのだが。


「とりあえずは目標クリアだ」


 トシヤは懸命にペダルを回そうとするが、斜度、つまり坂の上り具合は目で見て解るぐらい上がっている。これが『最初の難関』と言われる由縁であり、前回トシヤの心をへし折ったポイントなのだが今日は前回とは訳が違う。前回はサイクリング帰りに軽い気持ちで峠を上ってみようと思っただけだが今回は峠を上る為に来たのだという思いが折れそうなトシヤの心を繋ぎ留めた。重いペダルを必死に踏むが、落ちてしまったスピードは戻らない。はっきり言って歩いた方が速いぐらいのスピードでしか進めない。しかしトシヤは渾身の力でペダルを回し続けた。


 その甲斐あってトシヤはなんとか第一ヘアピンを抜ける事に成功したが、ぐねぐねと曲がりくねった上り坂はまだまだ続く。しかもそこからは道幅が狭くなり、それまで有ったセンターラインさえ無くなってしまった。そう、実はヒルクライムの本番はココからなのだ。


 静かな峠道にトシヤの荒い呼吸音が響く。


「あそこまで、あの日陰まで……」


 トシヤは少し先に見える日陰を見据え、汗だくになりながらペダルを回し、目標地点までたどり着くとリアクトを脇に寄せ、足を着いて休む。そして次は少し先に見えるカーブを目標に走る。それを何度か繰り返しているうちに、走っている時間より休んでいる時間の方が長くなり、休む姿勢もハンドルに突っ伏してしまい、上体を上げることすら出来なくなってしまっている。


「今日はココまでか……」


 トシヤはリタイヤを決め、リアクトを反転させた。

 今まで坂を上って来たのだから帰りは当然坂を下る事になる。下り坂なのだからスピードはぐんぐん乗り、ブレーキをかけないと恐ろしいスピードになってしまう。本来のトシヤならその疾走感にテンションが上がるところなのだがこの時ばかりはそうでなかった。上っている時に何台ものロードバイクが滑る様に駆け降りて来るのを見て楽しそうに思えたが、峠を上りきって降りてきた彼等と途中でリタイヤしてしまった自分を比べてしまうと情けなく思ってしまうのだった。

 あれだけ苦しみ、長い時間をかけて上った道のりが、下りではあっという間だった。


「なんぼも上ってなかったんだな……」


 峠のスタート地点の交差点まで下りたトシヤは口惜しそうに呟くと、逃げる様にその場を走り去った。



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