好奇心は犬をも殺す

王 素文

第1話

 これは祭壇だ。実験装置を見て、助手は感慨深くうなずいた。神を迎え、あがめたてまつるための祭壇。彼は宗教に興味はなかったが、目の前に鎮座する物体を眺めるにつけ、自分の印象はまぎれもなく正しいと感じていた。銀色に輝く台座に接続された無数のパイプが、複雑に絡み合って伸びている姿。その台座の上には、これまた銀色の大きな金属管が乗っかって、研究室ラボの天井にまで達している。

 巨大で、頼もしくて、どこか神々しい。ただの機械とはとうてい思えない。

「準備はいいかね?」彼の背後から教授が声をかけてきた。

「もちろんです、先生」

「それでは電源を入れる」すると、低い振動音が響きだした。

 助手は実験装置に近づくと、制御する操作パネルの前に立った。装置はぶーんという鈍いハム音をたてながら、彼を無表情に見下ろしている。

 見ようによれば、どことなく剣呑で冷酷なように思えなくもない──ふと、彼はそんなことを考えた。もしかすると、万物の創造主とはたまに剣呑で冷酷な存在になるのかも。死んだ祖母が、昔そんなことを言っていたからだ。(神さまはね、気まぐれにひどいいたずらをされることがある。よく覚えておくんだよ、役に立つかもしれないからね)

 彼はその言葉につかのま耳を傾けたが、やがて今の情況には好ましくないという結論を下した。これから実験が始まるのだ。集中しなければならない。

 とにかく……これはまさしく神の座と呼ぶにふさわしいものなのだから。

 そう、科学という名の神の。

「始めたまえ」いかめしく重々しい声で、教授が命令した。

「先生が起動してください。コマンドは入力済みです」助手は言った。「さあ」

「君の忠誠心には感動を禁じ得ない」教授はヒゲをひくひくさせて近づいてきた。機嫌がいいときに出る特徴の一つだった。「この深遠な研究に人生を捧げたのは、むだではなかったと感銘に浸っていたところだ。むろん、君もそうだと思っておるが」

「はい、そのとおりです」

「長い道のりだった……荒唐無稽な研究だと、ずいぶん後ろ指をさされもした。が、ついに我々はやり遂げたのだ。そうじゃないかね、君?」

「ええ」

「うむ、私についてきてくれた君なら、わかってくれると信じていたよ」

「ありがとうございます」ややじりじりしながら、助手は感謝の意をあらわした。

「なかには研究予算の垂れ流しだのどうだのと陰口を叩く連中もいるが……今日ここで起こるのは驚天動地のできごとなのだ。他人のあら探ししか能のない輩を連れてきて、鼻っ面を押しつけるほど、じっくり見学させてやってもよかったのだがね」

 残念そうに言うと、教授はヒゲを突然鋭くぴくりと動かした。それが機嫌を損ねたときの合図だと知っていた助手は、あわてて取りなすように言った。

「連中は呼んでも来ませんよ。さあ先生、やつらの鼻を明かしてやりましょう」

「そうだな。よし、では始めよう。天よ、我らに幸運を」教授は操作パネルのキーボードに触れようとした。

 きっと爆発する──その瞬間、助手の心にきざしたのは、そんな考えだった。ときに神は生贄を欲するのではなかったか? 祖母の言葉がにわかによみがえった。が、不吉な想像はすぐに消え去った。

 シューッという空気が漏れるような音がした。装置は爆発しなかった。

 幅三メートル、高さ五メートルほどの金属管が、ゆっくりと下がっていく。教授と助手は、その様子をうやうやしげに見つめていた。

 そして、管の中からあらわれたものを、彼らは見たのだった。

「すばらしいぞ!」教授が叫んだ。「成功だ! 新たな一ページが今開いたのだ!」熱狂に突き動かされて飛び上がった彼は、どしんと床に着地した。

「なんと呼んでもいいが、これは完璧だ。骨細胞から再生したとはとても思えん! これぞ科学の勝利!」声高らかに彼は宣言した。

「そして、我々の勝利だ!」

「おめでとうございます」助手は教授を讃えた。「成功すると信じていました」

「私もだよ。多少の覚悟はあったがね。一瞬、爆発するんじゃないかと思ったよ」そう語りつつ、彼の両目は装置から姿を見せたものに据えられたまま動かない。

 やがて教授は厳かな声で言った。「だが、それにしても……おぞましいものだな。わかっていたとはいえ」

「ええ、そうですね」これには助手も同意せざるを得なかった。

「古代の動物か! 実に脳みそが足りなさそうじゃないか」と教授。

「データと実物との間には天地ほどの隔たりがある、そいつを実感させてくれるのはありがたいが、しかしこれでは……」彼は言葉を切ると鼻に深いしわを寄せた。そして、教授と助手はその生き物を、いくばくかの恐怖と嫌悪をこめて眺めたのだった。

 装置に立つ動物は醜悪だった……二本の腕に二本の足。それぞれが胴体から生え、とりわけ体を支えるように真っ直ぐに立ったその足は、真昼に見る悪夢のようだ。髙い知能を持つ生物の足とは本来四本、それが自然の理であり、太古から現在へと続く正常な進化の証なのである。なのに、この生き物ときたら。

 助手は考えた。醜くも哀れな古代生物に耳かきほどの知性があれば、我が身を見てなんと思うだろう、と。自分なら尻尾のない肉体など、とても耐えられない。それにほとんど毛の生えていないあの肌は、温度の変化にとても弱そうだ。ふむ、前の氷河期で絶滅したのもむべなるかな。なぜなら──

「これが人間だ!」教授の声は歓喜に満ちあふれていた。

「ついに科学の御業が新しい神話をひも解いたのだ。もっとも、その神話の主役とは発展したクローニング理論という神だがね」

「神はぼくたちではないのですか」助手は鼻にしわをいくつも寄せた。

「失われた生物を、古い地層にあった骨からよみがえらせたのですよ」

「気をつけたまえ、驕りは破滅を呼ぶ」尻尾をさっと振り上げ、教授はたしなめた。

「一説によると人間を滅ぼしたのは、その驕り高ぶりらしい。それゆえ争い合い、個体数が減ったあげく氷河期にとどめをさされたのだと。あくまで伝説の域を出ないがね。とはいえ、愚かしい話だ。しかし、我らはそうではない。そう、進化の頂点たる私たち犬は」

 教授と助手の二匹は顔を見合わせると、信頼を確かめ合うように互いの鼻を嗅ぎあった。一方、一糸まとわぬ姿で装置の中に突っ立ったまま、誕生したばかりの人間は、そんな彼らを呆けたような面持ちで見下ろしていたのだった。



 実験が首尾よく成功して、数日が経った。

 助手が研究室にやってくると、教授は人間になにかを教えている最中だった。

「お手!」教授の声が部屋に響く。「どうした、疲れたか? ご褒美をやるぞ、さあ、お手!」

「なにをなさっているので?」訊くまでもなかったが、念のため助手は質問した。「まさか、サーカスにデビューさせるつもりでもないでしょう」

「なあに、単なる実験さ。愚鈍に見えるかもしれんが、学習能力は高いとふんだ。ほれ、お手!」彼が前足のうちの一本を差し出すと、人間の雄(生殖器が犬のそれと似ているからというのが、教授の慎ましやかな意見だった)は、それに応じて片手を出す。教授はいたくご満悦だったが、生まれてきたときと同じく人間はうろんな目つきで見返すだけだった。

「学習はできるようですが、だからといって知性の証明にはなりません」助手はうさん臭げに人間の雄を横目でにらんだ。

「餌づけされれば、アライグマだってできることです」

「彼は生まれたての赤ん坊と同じだよ。頭の中は空っぽさ。再生の際に脳髄の情報が初期化されてしまうみたいなのだ。にしても、君はどうやら彼にあまりいい印象を持っておらんようだね」レッスンをやり終えた人間に食物を与えながら、教授は助手に向かって言った。その声からは、どこか面白がっている様子がうかがえた。

「それにアライグマと一緒にするのは感心せんな。人間とは元をたどれば猿の──」

「よしてください」いらだたしげに、尻尾がぴくぴくと動く。「猿だって同じじゃないですか。餌の取り方は覚えても、それは知性ではなくて本能と呼ぶべきでは?」

「わかった、わかった」降参したように教授は言った。

「ご高説は心に留めておくよ。ところで君、二度目の実験の準備に取りかかってくれたまえ。新しい体細胞分離成長理論が正しいのは証明されたわけだし、次のフェーズに移行するとしよう。電気的刺激を与えて分化細胞を活性化する手法から、もう一歩前進できるかもしれんからな」教授はその場を離れて装置に歩み寄っていった。

 助手は実験動物を眺めた。人間はぽかんとした顔で床に座りこんでいる。

 どうにも気に入らない……見ていると、言いようのない感情が湧き出してくるのはなぜなのか、彼には説明できなかった。不安? それとも恐れ? 当然だ。なんといっても未知の生物なのだから。だが、それだけではかたづけられないものも感じる。

 なんというか……妙に胸騒ぎがする。

 この獣と一緒にいるのは、あまりよくないことなのかも、彼は研究室からそっと抜けだした。人間が装置からあらわれて以来、どうも心が落ち着かない。耳の中にもぐりこもうとするハエを追い払うように、助手は頭を激しく振った。

 しばらく頭を冷やしてこよう、食堂へ行って牛の骨にかじりつくのも悪くない、そう彼は考えた。骨を噛んでいると気分がよくなるのだ。

 それがいい。そうすれば、もっとまともな考えも浮かぶというものだ。



 ところが、数十分後、戻ってきた助手の目に飛びこんできたのは、横たわりながら人間に腹をさすってもらっている教授のあられもない姿だった。

「先生!」仰天して助手は叫んだ。「これはいったいなにごとですか!」

「おお、君か」教授は頭をあげて、教え子を見た。「いやね、こいつに別の実験をしようとしたら、ふと思いついてね。いや、思いついたというか、なんとも表現しがたいのだが……一種の衝動に突き動かされたと言ってもいい」彼の顔には、うっとりした表情が浮かんでいた。人間は一心不乱に教授の腹をなで続けている。

「とにかく、なぜかこうされてみたかったんだ。不思議だね」

「こんな光景を他の誰かに見られたら、大学から追放されてしまいます!」

 怒りと羞恥心をどうにか抑えこんだ助手は不機嫌になった。自分の教師でなかったら、思い切り噛みついてやるところだ。「それどころか精神病院に直行ですよ。あろうことか……い、犬が動物に愛撫されているなんて! 不謹慎にもほどがある!」

「そうか、それはすまなかった」

「そんなふうにさわられて、気持ち悪くないのですか?」助手は恐る恐る尋ねた。

「気持ち悪さなど全然ないね。むしろ……ちょっといい気持ちだ」そこで教授は体をひねると、反対側の横腹をさらした。「すまんが、こっちの方もさわってくれんか」

 たまりかねて助手は大声を出した。「ぼくは認めませんよ! こんなこと!」犬歯がむき出しになり、泡だったよだれが口の端から飛び散った。

「これじゃあ、まるで……どうしようもないまぬけは、ぼくらみたいじゃないですか。それとも、この」助手はいきり立って、人間に鼻先を向けた。

「この脳たりんな生き物の方が、ぼくたちを凌駕しているとでも? 冗談じゃない」彼はぶるっと胴震いした。実に不潔な想像が脳裏をよぎり、悪寒が走ったのである。

 身を起こすと、教授がなぐさめるように助手の肩に前足をかけた。

「まあまあ、ちょっとしたおふざけだよ。気にするな」

「し、しかし……」

 目を輝かせて次の言いつけを待っている人間に、教授は前足で追い払うようなそぶりを示したあと、しばらくなにか考えているようだった。やがて、研究室の奥にのろのろと引っこんでいく人間を見やった。そして、ふたたび口を開いた。

「実験の日、確か君は言ったな。〝神は自分たちではないのか〟と」

「ええ、言いました」

「よろしい、では、そうしようじゃないか。今日から私たちが神だ。俊敏な我ら犬ではなく、自分の影を引きずるようにしか動けない鈍重な人間の神にね」

 その言葉の意味がのみこめず、助手はくいっと小首をかしげた。

「えっ、どういうことでしょう? 先生はあのとき確か──」

 彼は途中で黙った。教授のヒゲが鋭くぴくりと動いたのを認めたのだ。

「忘れたのかね」突然、教授は声に深刻さをただよわせた。「先日、あの人間をラボ統括部の者たちに見せたことを」



 助手はじっと沈黙しながら、考えをめぐらせていた。ラボ統括部は学内で行われる研究や実験を一元的に管理している部署である。したがって、費用もそこから出される。だが、要求する予算案は近頃では大幅に削減されて返ってくるのが恒例になっていたのだ。そこで助手は教授の言いたいことをようやくにして理解した。

「確かに成果を披露しましたね。でも──」

「そう、そこだよ、君! で、彼らはなんと言ったかね」

「えーと、こう言いました。〝この研究の費用対効果に、大いに疑問を覚える〟」

「ふん! まったくもってばかげておる!」教授は怒りをむき出しにして叫んだ。

「費用対効果だと! 実にけがらわしい言葉だ!」

「同感です、先生」

「彼の有用性がわからんとは嘆かわしいかぎり。大学は民間企業に売りこめるものを欲しているのだろうが……」不満を表明するように、教授はふんと鼻息を荒くした。

「彼をごらん。きわめて見るに耐えん姿だ。が、肉体的な特徴に私は大いに注目しておる。我々より太い腕と足、それにたくさん生えている指がそうだ。我ら犬にはないものばかり、ということは……」

「ということは?」

「たとえば、この実験装置だが、私と君で作り上げるのにどれほど苦労したか覚えているだろう? 細かい部品を扱ったり重い機材を自由に動かすことが、私たちにはとても難しいのだ。機械工学科で試作中だった強化外骨格、あれを用いながら組み立てたのを、よもや忘れたわけじゃあるまい」

 当時の作業を思いだしながら、助手はうなずいた。怪物のような外見の外骨格、そのマニピュレータをびくびくしながら動かしたおかげでストレスが鬱積し、毎日足の先をなめ回すという問題行動に悩まされたのである。

「そこでだ」教授は言った。「私はあれに、智慧の実を少し分けてやろうと思う」

「なんですって?」

「脳細胞に特殊な電気パルスを流して、神経信号の伝達処理を加速してやるのだ。そうなれば、彼の潜在能力はもっと明確になるに違いない。そう私は確信しておる」

「先生、でも、それは──」

「なんだかんだ言っても、結果を出さねばならんのだよ、君。連中が望むような結果を。我々の命令を理解し、我々ができなかったことを人間がやってみせれば、彼らの考えも変わるだろう。でないとへたをすれば、研究そのものが頓挫する可能性だってあるのだ」

 そう言うと、教授は心配げに研究室をうろうろと歩き回った。

「わかりました。やりましょう、先生」やや混乱しながらも、助手は言った。

「でも、先生、絶対に忘れないでください。これはすべて科学の進歩のために行われる実験の一つだということを。犬の叡智に代わるものは、なに一つないのだと」

 当然だと言わんばかりのもったいぶった動きで、教授は首を振り上げた。

「もちろんだとも。本当に大事なことは決して忘れない、それこそが犬の特質ではなかったかね?」

 そのとおりだ。しかし……もやもやした気分を払拭できぬまま、助手は研究室をあとにした。ずっと話していたので、水を飲みたくなったのだ。食堂へ戻り、ボウルを満たす水を舌で絡めとりながら、彼は教授の言ったことが本当に正しいかどうかを見極めようとした。けれど、いくら頭をはたらかせても答えは出なかった。

(潜在能力はもっと明確になるに違いない)

 かもしれない。だが……一瞬ためらったあと、そこで彼は考えるのをやめた。その先はなぜか考えるのも恐ろしい気がしたし、それにある衝動、いやしい実験動物に優しくなでられたいという不意に湧き出たいかれた衝動を、できるだけ遠ざけたかったのである。



 さらに一ヶ月が経過した。

 教授のもくろみはうまくいった。人間の脳はみるみる発達した。やがて彼は少しずつ言葉を理解するようになり、さらには実験の手伝いもできるまでになった。

「そのキーじゃない。こっちのだ」操作パネルのキーボードに戸惑っている人間を、助手は叱った。「一度言ったら、ちゃんと覚えろ」彼の尻尾が神経質そうに震える。

「いいか、手順が狂うと取り返しのつかないことになるんだからな。次に間違ったら、そのときは晩飯はないと思え」

 人間はおどおどした様子で装置に向かっていた。その姿を見ながら助手は、内心で人間の手──まさに猿の手だ──の器用さに、驚きといささかの羨望を覚えていた。三十分かかる手作業を覚えこませれば、腹立たしいことに彼は五分でやってのける。不気味に見えたはずの人間の指が、仕事をさせれば機能的に動くのがわかって、教授は満足そうだった──それどころか、そのうち言葉も喋れるようになるだろう、というのが彼の意見だった。

「それくらいの権利はあるだろう」あるとき、教授はそう言って助手を憤慨させた。「進歩の証だよ」

「権利などと!」思わず、助手はくわえていた肉を落としてしまった。彼らは大学近くのレストランで昼食をとっていた。

「あれは実験動物なんですよ。権利とかばかばかしい」最後の語句に目一杯の嫌悪をこめて、彼は言い捨てた。

「動物にいちいち話す権利とか与えていたら、この世は騒がしくなり過ぎますよ」

「ずいぶんと狭量じゃないか」教え子が取り落とした肉を鼻面で押し戻しながら、教授は言った。「そんなことでは、いい神さまにはなれないぞ」

「驕り高ぶりがどうとか言ってたくせに、そもそも神になりたがったのは先生のほうじゃないんですか?」

「認めるよ」と教授。「だが、正確に言えば好奇心にかられて、だ。それこそが学究の源だよ……しかし、一方でこんな言葉もあるな。〝好奇心は犬をも殺す〟」

 好奇心は犬をも殺す?

 誰だ? 誰がそんなことを言った?

 まあいい……とにかく、おかしなことは考えるな。

 そう思いつつも、ふと気がつけば、頭を悩ます二つの事柄に心はただよっていく。一つはあの破廉恥な欲望──無防備にさらけ出した腹をさすってもらうとか、耳の後ろを指でごしごし掻いてほしいなどという堕落した欲望が日増しに高まりつつあること。そして、もう一つはしょっちゅう悪夢を見ることだった。それは首にひもをつけられ、嬉々として跳ね回る自分を人間が連れ歩いている夢だった。

「くそったれめ」心でつぶやいたつもりだったが、口に出た。彼はぶるっと胴震いをすると、目の前の仕事に集中しようと決めた。

 実験装置の中では新たな生物が誕生しようとしていた。二度目の実験だ。今回は踏みこみ過ぎともとれる助手の強い希望により〝絶対無害で絶対安心な生き物〟を創造する予定だった。

「猫の骨細胞があります」助手は教授に進言した。「体も脳も小さいですし」

 これもまた、とっくに滅んだ生物だ。さかんに議論が交わされたのち、決まったのはやはり猫だった。小さな体格というのが重要なポイントだった。教え子の心情を斟酌した師の温情ともいうべき結果だと、助手は解釈した。その教授は作業を彼にまかせ、外にお茶を飲みに行っている最中である。

 犬ははたして猫の神になれるものだろうか。記憶の中でまたしても祖母が忠告してくる。(猫は激しく犬を憎むと聞いたよ)

 とそのとき、突然起こったできごとが彼の思考を断ち切った。

 研究室にけたたましい警報が鳴り響いたのだ。

「なにごとだ!」助手は叫び、実験装置に鋭く視線を投げた。警告を示すランプが狂ったように明滅しているのを見て、彼はとてつもなくまずいことが起きていることを悟った。胸がむかむかするほど、まずいことが。そして──

 そして、そんな事態を引き起こすことができるのは、この部屋に一匹しかいない。

「そこをどくんだ! このまぬけ!」助手は人間の雄に勢いよく体当りした。

「手順を間違ったな。くそ、元に戻さないと!」操作パネルの上に前足を乗せ、彼は急いで多くのスイッチやキーを操作し始めた。が、うまくいかない。犬の足は地面を蹴ってたくましく走ることができるのに、なぜ機械を操るときは頼りなくなるのか。「おい!」彼は振り返らずに人間を呼んだ。「さっさとこっちに来て、てつだ──」

 そこで声が止まった。

 人間が助手の体を、両手でがっちりとつかんだからだった。

 なにをする、そう言おうとしたとたん、人間は助手を正面に向かせ、にっこりと微笑んだ。その瞬間だった、助手の中になにかが流れこんできたのは──ゆっくりではなく激流となって。それは鮮烈なイメージを伴っていて、目がくらむほどだった。

 同時に彼の頭のどこかにあるスクリーンには、いろんな光景が映し出されていた。ちぎれるほど尻尾を振って人間と戯れている犬、人間の両腕に抱かれ、安心したように眠る犬の姿、そして、優しく見つめる人間を同じように、いや、それ以上に情愛をこめて見返している同胞たち……それらは不可思議であったが、決して不愉快ではなかったのである。

 おお、これは──これは

 はっと気がつくと、人間がすぐ目の前にいた。

「お手」微笑みながら、彼は教えられた最初の言葉を口にした。「お手」

 我知れず言われるがままに、助手は右前足を人間に差し出していた。



 教授が戻ったときには、なにもかもが終わっていた。

「なんと!」彼は驚いて飛び上がった。「なにがあったのか、説明したまえ!」

 実験装置の傍らには人間が倒れていた。どうやら、もう生きていないらしい。

「ぼくがやったのです、先生」絶命している人間のそばに座る助手が言った。

「殺してしまいました」

 自分の研究を台無しにした教え子を、教授はにらみつけた。

「なぜだ? どうしてこんなことをした?」

「首筋に噛みつきました。気がついたらそうしていたのです。先生、ぼくは……」消え入るような小さな声で助手は告白した。

「彼が言葉を話したのを聞いたんです〝お手〟そう言いました。にこにこしながら言ったんです。そうしたら……もうわけがわからなくなってしまって」泣くという行為ができるのなら、今こそ彼は泣きたかった。だが、犬は涙を流すことができない。それも自然界の決まりごとの一つなのだ。

「ぼくは野蛮な犬でなしなんでしょうか」

 教授はつかの間沈黙していた。がやがて、「そうかもな」彼はため息をついた。「しかし、そのかわり君はなにかをつかんだと思う。それは我らには貴重な経験かもしれんぞ」

「で、でも──」

「もうそれ以上言うな。でないとこっちが悔しくなる」諦めた声で教授は言った。

「想像できなかったとはいえ、あの人間は我々にこう教えてくれたと考えようじゃないか。ときとして知ることとはみずから危険を招く、と。どうだ? ならば、ちょっとは納得できるのじゃないかね」

「よくわかりません。それにあの人間は、ぼくを──」

「もうよせ。ともかく不快な話はここまでだ。ところで、今度の実験の結果をさっそく見ようではないか。再生シークエンスは終わったんだろ」教授は事件の収束を宣言した。

「ああ、その死体はあとでかたづければよろしい。生きていてこその実験動物だからな。こうなってしまえばなんの価値も──あっ!」

 死んだと思った人間の体が動き、装置の操作パネルに片手をかけたのだ。実験装置はシューッという音を立て、静かになった。うめき声をあげると、そのままの姿勢で今度こそ人間は息絶えた。その光景を彼らは凍りついたように見つめていた。

 銀色の筒がゆっくりと下がり、失われた時代の失われた生き物が姿を見せ始める。

 だが、どうも様子がおかしい。教授と助手は思わず後ずさった。

 それは取るに足らない、か弱い生物のはずだった。もちろん、そのように計画したのだ。なのに──

 あのとき、ちゃんと元に戻せなかったんだ。いや、戻せなかったどころか……背骨に氷柱を打ちこまれるような恐怖を覚え、尻尾が股の間に垂れていくのをぼんやりと意識しながら、助手は思った──先生の言ったとおりだ。知ることはみずから危険を招く。そう、確かに

 装置からあらわれたのは、長大な牙を持ったサーベルタイガーだったのである。装置の操作に恐ろしいミスがあったなど知るよしもないその猫科の古代獣は、とても大きく、とても飢えていた。縮こまる二匹の怯えた犬を睥睨すると、サーベルタイガーはからだをかがめ、その日最初の狩りの姿勢をとったのだった。

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