夜を終わらせたくて

猫屋梵天堂本舗

第1話 夜を終わらせたくて

 本当に、正直なことを告白しよう。

 私は、二十代の頃、長いこと……とはいっても、たかが五年半だけれど、実父の介護をしていた。

 はじめのうちは、父が自力で立ち上がれない時に手を貸す程度だった。

 そもそもの原因は、父が家庭内のどこかで、転倒かなにかにぶつかったか、そんなよく分からない理由で、右の上腕骨を骨折したというところから始まる。


 私は遅くに産まれた子供なので、父は当時七十代だった。

 利き手の自由を失った父は、自宅の近くで最も大きな病院、すなわち公立の病院で検査と診察を受けたが、そのまま自宅に帰された。

 入院に値するほどの怪我ではないと診断されたためだ。右腕が折れてはいるが、ほんの些細なヒビ程度で、特にギプスなどは必要がないと医師は判断した。処方されたのは痛み止めのロキソニンだけだった。

 しかし、ほぼ半日に及ぶ検査を終えて自宅に戻った父は、自力で立つことも出来なくなっていた。

 少しでも体を動かすと、右半身に激痛が走ると言っていた。痛み止めは効かず、それまで活発だった父が、ほぼ一日中布団から起き上がらないようになった。

 かくして、私の介護生活は始まったのだ。


 私は、母と時間制で交代して、父の介護をすることになった。昼間は母が介護し、夜間は私が見るということになった。

 両親が眠りに就く午後十時から、母が目覚める翌朝の七時までを、私は任されていた。

 本来なら、父は眠っている時間だ。

 その頃、私は大学生だった。

 一晩中起きていて、ネットの広大な海の様々な情報を眺めたり、音楽を聞いたり、本を読んだりして過ごした。翌朝母と交代してから少し眠り、午後から講義に出た。

 私の負担は、それほどでもないと思われるかもしれない。

 だが、その「夜」という時間は、私にとっては恐ろしいものだった。

 とてつもなく怖かった。


 いつ、父から呼び出しがあるかと脅えていた。

 それが、トイレへ行く為に立ちたいという程度なら、私は喜んで付き添い、父の下の世話もして、彼を着替えさせてから布団に寝かせた。

 だが、そこには必ず、父から私への不平不満がついてまわった。

 聞くだけでいたたまれないくらいの罵倒と悪意を私に向けた。

「この役立たず」

「お前なんてゴミだ」

「俺の代わりにお前が死ね」

 ほんの数ヶ月前の、優しい父からは、決して出なかった言葉のはずだ。

 そんなひどいことを、口にする人ではない。

 だが、次第に暴言は現実の暴力へと変わり、痛みで動かないはずの腕で繰り返し殴られるようになった。

 私を痛めつけている時だけは、痛みを忘れているようだった。一人では支えきれないはずの体で、私を何度も蹴った。ある晩には、殴られて倒れた私の胸を力いっぱい踏みつけて、私の肋骨にひびを入れた。

 翌朝というより、そのまま眠らないで病院に行き、医師に骨折の原因を「分かりません。寝ぼけて転んだのかも」と説明した時には、私は自分があまりにも愚かで無様で、今にも笑い出しそうだったくらいだ。

 そんな傷ではないと、医師ならば検査をするまでもなく分かったはずだが、それ以上問いつめられることはなく、「肋骨が折れてはいたが正常な場所に留まっているので自然な治癒に任せる」と軽くテーピングをされ、痛み止めを処方されただけで、私の診察は終わった。


 父からのあらゆる反応は、時間が経った今ならば理解できる。

 思いどおりにならない体への苛立ちや、絶え間ない痛み、未来への、すなわち死の恐怖などが複合して、私に八つ当たりしていたのだろう。溜まりに溜まった鬱憤をぶつけるには、私はちょうどいい相手だった。姉たちとは年の離れた末っ子で、唯一の男子で、結婚もしておらず、実家暮らしだが図体だけは立派なおとなの男。そして、決してやり返さないと分かっている。そんな丈夫でおとなしいサンドバッグが手近に転がっていたら、せめてものストレス解消に二発や三発殴りつけたくもなるだろう。

 だが、当時の私は、ただ父が怖かった。

 殴られるより、蹴られるより、私は父に否定されるのが辛くてたまらなかった。愛情や配慮という、理性の部分を取り払った言葉なのだから、これは父の本音なのだろう。考えたくないのに、そう考えてしまっていた。

 一番傷ついたのは、「お前なんていらない、作ったのが間違いだった」という言葉だった。

 私だってここにいたくない、逃げ出したいのですと、正直に父に告げたところで、事態が好転したとは思えない。少なくとも、私は言えなかった。ただ、父が……私の知っている優しい父とは別の何かになってしまったことに恐れ戦き、その辛さを誰に打ち明けることもできないまま、日々をやり過ごすことだけに必死だった。

 自分がどんなに父のために尽くしても、父にとっては私は邪魔で目障りな存在なのだと思ったら、自分の四畳半の部屋に駆け込んで、声を殺して泣いた。


 毎日が辛くてたまらなかった。

 同時に、それが辛いと感じてしまう自分を責め続けていた。

 父を嫌いたくないと同時に、当たり前のように父の世話をさせている母を責めているような気がしたから。

 家にいる時は殴られ、大学に行けば周囲から不自然な怪我の心配をされ、疲労と睡眠不足とで、私はとことんまで追い詰められていた。


 私は、病院スタッフの栄養士さんや調理士さんから意見を聞いて、誤飲や消化のことを考慮して、できるかぎり柔らかくて栄養バランスを考えた食事を用意した。

 それでもしばしば、「こんなまずいものが食えるか」「毎日同じものばかり出しやがって」と、罵倒と同時に皿を投げつけられた。

 大抵は避けていたけれど、ある日、私はついに頭で茶碗を受け止めてしまって、八針縫う羽目になった。

 顔や頭の皮膚に埋まっている陶器の破片を抜き出されている時には、もう、都合のいい言い訳を考えるのも無駄だと分かってしまった。救急外来の医師や看護士は、こういう傷がどうやってできるのか知り尽くしている。

 正直に全てを打ち明けた。

 だが、救急外来の医師は、泣いている私には無関心だった。前に肋骨が折れた時と同じく。

 そりゃあそうだろう、切ったり貼ったりが彼らの専門で、自分の存在自体に悩みを抱えている、歪んだ家庭で育った奴の話なんて、知ったこっちゃあない。


 やがて父は、介護用具を使っても、立ち上がるどころか、体を起こすのにも介助が必要になってしまった。

 いろいろな方からアドバイスを受けた。

 公立機関の病院のソーシャルワーカーさんからも、地域の包括支援センターの社会福祉士さんからも、ケアマネージャーさんからも、介護経験のある個人的な知人からも、インターネット上の皆さんからも。私のことを心配してくれる友人からも。

 みんな、少しでも父本人や家族……それから私自身の負担を減らそうと、知恵を絞り、出来るかぎりの努力をしてくれた。

 でも、何の解決策も、どころか、かすかな心の安らぎすら得られなかった。

 今の日本の制度では、死へと向かって迷走していく高齢者と二十四時間向き合うのは、家族しかいないのだ。


 本当にごくはじめのうちは、私も父も治療への気力があった。

 父は週に一度デイサービスに通ってリハビリをし、私は喜んで、出来るかぎり父の介護をした。食事の介助は勿論、毎晩寝る前に体を拭き、足湯を使わせ、水のいらないシャンプーや蒸しタオルで体の清潔を保った。父が少しでも喜んでくれるのが、私の生き甲斐になっていた。

 だが、父はずるずると希望を失っていった。

 そもそもデイサービスの雰囲気に、父は馴染めなかった。折り紙やゲームや合唱や簡単なダンスのような活動が、むしろ父のプライドを傷つけられたらしい。

「幼稚園児みたいにされるのは嫌だ」と、父は言った。

 それが必要なことだと頭では分かっていたのだろうが、父は頑に参加せず、傍観者を決め込むようになってしまった。


 最終的にはそのまま体の自由がきかなくなり、最初のふらつきからちょうど五年後くらいの春の明け方に、ついに倒れた。

 私が母と交代するために父の寝室に入ったとき、今までに感じたことのない異臭がして、私は異変に気付いた。いくら声をかけても起きず、口をあんぐりと開け、排泄物を垂れ流して、父は布団に横たわっていた。

 何か普通じゃないことが起きていると直感した瞬間、私は電話機を掴み、救急車を呼んだ。

 救急車が来るまでの時間は、よくある表現だが、ひどく長く感じた。時計の秒針の音がやけに大きく、ゆっくりに聞こえた。

 脳内出血だった。脳の八割がたが血にまみれた状態だと、父の頭部のMRI写真が教えてくれた。病状は重篤なものだったが、病院での適切な処置のおかげで、父は命だけは取り留めた。

 病院のベッドに横たわっている父は、とても穏やかで、昼寝でも楽しんでいるようだった。

 父の手を握ると、握り返してくれることもあった。

 胸に耳を寄せると、規則的で力強い鼓動が聞こえてきた。

 私はおろかにも、父がまた元気になってくれるかもしれないとすら思ったものだ。脳の受けたダメージを考えたら、そんな日など永遠に来ないと分かっていたはずなのに。


 三ヶ月後には、延命処置について医師たちと話し合える程度にもなっていた。

 自発呼吸はできている。

 胃瘻の手術をしてから療養施設に移り、ゆっくりと死への時間を過ごすのもいいのではないか。

 そんなふうに思っていた矢先に、病状が急変し、父は亡くなったのだ。


 朝、病院から電話が来て、その日は、母は持病の治療で別の病院に行っていたから、私は一人で、父の病室に行った。

 私が部屋に入ると、看護師さんが父のベッドの傍まで連れて行ってくれて、担当医が死亡告知をした。

「○月○日、〇〇時〇〇分、ご臨終です」

 私は頭が真っ白になった。

 父が死んだ?

 こんなことありえない。あってはならない。

 つい昨日、担当医と胃瘻の手術の日程を決めたばかりではないか。療養型の病院への転院の手続きも終わっていた。

 まだ体がこんなに温かい。

 これからもずっと父は、静かに眠りながら、いつか目覚めるかもしれないという希望と安らぎを、私に与えてくれるはずだったのに。

 しかし、父の手をどんなに強く握っても、呼びかけても、もはや答えてはもらえなかった。

 どうしたらいいのか、全く分からなかった。

 看護師さんが「ご連絡したい方がいらっしゃるなら、できるだけお早めに」と言ってくれて、それでようやく、家族に伝えなくてはならないんだと感じた。

 それまでは、ただ悲しみだけで、呆然としていた。

 今は別の病院にいるはずの母に、離れて暮らしている姉たちに、親しかった親戚に、ケアマネージャーさんに、そのほかの連絡しなくてはいけない人に、一通り電話をするだけの冷静さはあったというのに、それでも。

 父が死んでしまったことが、受け入れられなかった。


 ひどい最期だと思う人もいるかもしれない。ただ父を苦しませて、つらい時間を引き延ばして、私が自分の心の安寧だけを選んだのだと。

 実際、私もそう思う。

 全ての延命措置を拒否していたら、父はこの世にこんなに長く、苦しみと一緒に留まらなくてよかった。

 だけれど、私には……積極的に死を迎えることなど、とうていできなかった。

 つい昨日まで、酸素マスクなしでもしっかり息をしていて、胸に耳を寄せれば力強い心臓の音が聞こえて、時には私の手を握り返してくれて。耳元でいろいろな思い出話をすると、たまに微笑み返してくれたような気がして。

 私には、父はとても気分が良さそうに、眠っているだけに見えた。

 家にいたときよりずっと穏やかで、優しい父が戻ってきたような気がしていた。

 父のベッドの傍らにいるのが、私にはとても幸せな時間だった。殴られたことも、罵られたことも、全て忘れられた。

 それが終わってしまった。

 全て終わってしまったのだ。


 その後のことは、よく覚えていない。仕事の合間を見つけて駆けつけてくれた上の姉が、すべてをうまく行く様にはからってくれたんだろう。下の姉は、ただひたすら泣くばかりで、私の至らなさを責めた。

 安置室にいる父と、私はただ向き合っていた。

 病院から葬儀社へと出て行く車を見送ってくれた、若い看護師さんが目を潤ませていたことだけは、はっきりと記憶しているけれど。

 お葬式も、その後の親族だけの食事会も、手配してくれたのは上の姉なので、私は何もしなかったし、出来なかった。

 喪主は私ではなく、長女である姉だ。

 父の死そのものすら、私の手から離れた。


 それなのに。

 父の葬儀を終えてから、もう何年も経つけれど、眠るといつも、夢に父が出てくる。

 夢の中の父は、厳格で、もの静かで、とても優しい、私が愛していた父だ。

 私が死ぬまで同じ夢を見るのか、私が父と同じくらい立派な人間になれば、あるいは親になれば、この夢とは別れられるのか、私には何も分からない。

 そう。私はいつも、何も分からずに悪い選択ばかり繰り返してきた。

 最近はとうとう、自分の最期を意識する年齢になってしまった。

 私には子供も配偶者もいない。

 母は父の死がきっかけで認知症になり、最近ではそれがひどく進んで、今は私が彼女の息子であることすら理解できないようになってしまった。姉たちのことも見分けがつかないようになり、そのことにショックを受けた下の姉は、もはや実家に寄り付こうともしない。

 ベッドから車椅子に移ることさえ一人では無理だ。

 だから私は、今は母の介護をしている。

 母はよく、父と出会った頃の話をする。少女のように目を輝かせて。その、遠い昔の記憶だけが母の世界になってしまった。

 父の話をするとき、母はとても幸せそうだ。それならばいいと割り切って、私は今日も母の世話をする。おむつを代え、寝返りを打たせ、食事を口もとまでスプーンで運ぶ。天気のいい日は、車椅子に乗せた母を散歩に連れ出して、家族みんなでよく出かけた公園まで行く。

「こどもって本当に元気ねえ。怪我しないように、あなたも気をつけてあげて」

 母はいつも同じことを言って、にっこりと笑う。私のことを、父だと思い込んでいるようだ。

 母がいつまで生きていられるのか、私には分からない。私は繰り返し、母の口から絶え間なく続く父との思い出を聞くだけだ。

 さすがに私も、いい加減分かっている。母の老い先は、そう長いものではないだろう。認知症の薬は、母にはほとんど効果はなかったし、CTスキャンで見た母の脳は、まるでピースの欠けたパズルのように、そこかしこに穴が開いていたのだから。

 なんとか残っているわずかな脳細胞から、母が父との思い出を呼び起こせることのほうが、ずっと驚くべきことだ。

 認知症が急激に進んだのは、母に取っては、もしかしたら良かったのかもしれない。

 父のように、死への恐怖に向き合わずに済んでいるのだから。


 どんな結果にせよ、母を看取ったら、私の役目は終わる。

 いつかは終わるのだ。

 子育てとは違って、終わりの瞬間にあるのは、永遠の別れだけなのだけれど。


 母を介護施設まで送り届けた後、私はついに独り住まいになってしまった実家に戻る。ここは住宅地だが、ほとんどご近所付き合いもない。

 静まりかえった家の中を見渡すたび、私は幸せだった子供時代を思いだす。優しい両親、ソファーにゆったりともたれた頼もしい父と、台所で楽しげに料理の腕を振るう母。音楽好きな上の姉がピアノを弾き、下の姉はそれに合わせてくるくると踊る。やがて、母の作るカレーの香りが居間どころか家中に広がって、父の膝の上から私は、母の前でぐつぐつと音をたてている鍋を指差して言う。

「かれーたべる」

 まだたどたどしい言葉に、家族みんなが笑う。

 いつでもこの居間は、笑いに満ちていた。

 ここにあるのは、幸せな思い出だけだ。


 私は二階の自室から枕と毛布を持ってきて、いつも父が座っていたソファーに横になった。 

 私はこの部屋で、一人でひっそりと死を迎えることになるだろう。

 私が死んでも、何日も、あるいは何週間、何ヶ月と、誰も気付かない可能性も大いにある。

 そのときが来たら、他人様にかけるであろう迷惑を思うと心苦しいが、せめて家にある持ち物くらいは処分して、腐った死体の臭いの染み付いた遺品が少しでも減らせるように気をつけている。

 そもそも、独り身の大学生に必要な家具なんて、パソコンとソファーとエアコンだけだろう。


 空っぽの部屋で、ぼんやりと……ユーチューブから流れてくる反吐が出るほど下らないコマーシャルを見ながら、心から思う。

 私は子供を持たなくてよかった。

 人を愛さずにいてよかった。

 私は一人きりで、この世から消え去る運命だが、それでいいのだ。

 その時には、誰にもこんな悲しい思いをさせなくて済むのだから。

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