第16話 秘密の手紙

 お父様。

 私と花園さん、もとい後のお万様は、この時完全にはぐれてしまったのです。

 私達が合流するためには、まだもう少し、時間が必要でした……。


***

 

 玉と引き離された花園は、珍しく途方に暮れていた。というのも、今まで彼女が替え玉として堂々として来られたのは、ひとえに玉という存在があったからである。

 花園は頭も切れ、吉原で一等の教養を身につけてはいた。しかし公家の姫君としての作法、慶光院院主としての振舞いに関しては、まだまだ詰めが甘かった。侍女である玉のフォローが無ければ、あの春日局に簡単に尻尾を掴まれてしまうだろう。


「ちくしょう、あのクソババア!」


 しかし、幾ら憤っても仕方が無かった。とにかく、この状況をなんとか乗り切るしかない。それには、何としても玉と合流する必要があった。だがこの御用屋敷には、春日局の息が掛かった者しかいない。誰に掛け合ったとて、無駄骨に終わることは目に見えていた。


 「だとすれば、もう頼りは六条小路家しかねぇか……」


 花園はすぐに文をしたためた。内容は、玉の理不尽な追放を取り消すように訴えるものだ。

 ――しかしこの手紙を、誰に託せば良いのだろう。御用屋敷の役人も侍女も、春日の手先。彼らに託しても、きっと跡かたもなく揉み消されてしまう。


「さて、どうするかだ」


 書きあげた手紙を前に思案していた、その時だった。

 襖の向こうで、恭しい女中の声がした。 


「院主様、ご入浴の用意が出来ました」

「は、入浴どすか?」

「左様でございます。さぞお疲れでございましょう。湯が冷めぬ内にどうぞ」


 女中は花園の返事を待つ気はないらしい。花園の耳に、スッと襖に手をかける音が聞こえた。有無を言わさず、湯殿ゆどのに連れて行く気だ。


「ありがとう、すぐ参りますぇ」


 花園は咄嗟にそう答えながら、大慌てで手紙を隠そう躍起になる。見つかれば即刻取り上げられることは確実であるし、最悪京都の密偵という嫌疑をかけられる可能性もあったからだ。

 

 しかし女中はそんな花園をあざ笑うかのように、構わず襖を開ける。そして鼠を狙う猫のような目で、鋭く部屋中を見回した。恐らく、院主が妙なことをしないか見張りに来たのであろう。


 だが女中の目に映ったのは、一人で優雅に茶を啜る院主の姿だった。文机≪ふづくえ≫の上には墨を擦った跡こそあるが、肝心の書かれたモノ自体は、どこにもない。

 不自然さを感じつつも女中はポーカーフェイスを保ちながら、院主に近づく。そして次の瞬間、いきなり彼女の腕を掴んだ。


「な、何するんどすぇ!?」

「京の方は何事にも動きが遅くて困ります。さ、早く動いてくださいまし」


「い、痛いぇ!! 手を離してくだされ!!」

「なんとはしたない。高貴なお方なら、この程度で声を上げなさいますな」


 あまりのやりように院主は目いっぱい声を上げたが、この広い屋敷に彼女の仲間はもう誰もいなかった。

 引きずられるようにして連れて行かれたのは、女中の宣言通り湯殿である。


 がしかし、そこには異様な光景が広がっていた。

 



語句

湯殿(ゆどの):屋敷の中に作られた入浴するための御殿。

文机(ふづくえ):筆記するための小ぶりな机


 

 

 



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