第8話 畳の上の心理戦(壱)~運命の女の邂逅~

 ジリジリと、時間だけが経っている。

 春日局の座敷に上がってから、はや半刻(一時間)がたった。

 

 それでも未だご本人は現れず、花園と玉はじっと敷物の上に座らされたまま、こうして彼女の登場を待たされているのである。花園と玉の対面に座っている春日局付きであろう侍女も、紺地に梅の刺繍を凝らした豪華な打ち掛けを誇らしげに纏ったままこの異常事態に弁明の一つもせず、ただニコニコと黙って座っているだけだ。重い沈黙が、座敷中に溢れていた。

 

 流石の玉も、この仕打ちには腹わたが煮えくりかえった。招いておきながら、現れないなんて。全くどうかしている。玉は溜まりかねて、黙っている侍女に質問を投げかけた。

 

「あのぅ、春日局さまはどうされたのですか?」

「すぐに来られますよ、御心配なさいますな。春日局さまは大奥どころか、幕府の御用も仕切っていらっしゃるお忙しい方ゆえ仕方がないのです」


 これだけ言って、侍女は元通りの張り付いたような笑いを顔に浮かべ、また黙りこくった。


「左様ですか。せやったら、仕方が無いわなぁ」


 花園は怒るどころか、鷹揚おうように微笑んでいる。それどころか、玉を優しく叱った。


「玉。春日局さんはお忙しい方なのぇ。お仕事に追われて、時間も思い通りに出来はしはれへんのや。そんな失礼な質問をするでないぇ」


 そう言い終わると、花園は侍女の顔をチラリと見た。花園の言葉を聞いた侍女のコメカミがピクリと動いたのを、花園は見逃さなかった。


「それよりも、私は江戸の大奥について知りたいわぁ。長く尼寺に居りましたから、きっと世間知らずになってしもてると思いますのぇ」


 侍女は何も答えず、ただただ微笑み続けている。花園はそれをあえて追求せず、そのまま独り言を言うように侍女に語りかけ続けた。


「もしも将軍さんの御前で粗相でもしたらと思うと、胸が潰れる思いがしますのや。ああ、春日局さんが居はったらなぁ。行儀作法について御伺い出来るええ機会やと胸躍らせてここに参りましたのに」


 侍女は、未だ答えない。しかし顔色だけがドンドン変わっていくのが、玉にも解った。


「せやけど、貴女にお会いしてその不安も無くなりました。貴女、大奥にお勤めなんでしょう? 春日局さん付きの侍女やったら、そら一流の作法を身につけてらっしゃるんやろうねぇ。是非、私にご教授願えんやろうか」

「まさか。私程度の女が京の姫君にお教えするなんて」


 侍女はここで初めて、花園に返答した。いや、違う。『返答してしまった』という感じだった。侍女は自分でも驚いたような表情を浮かべた。初めてこの女が見せた、素の表情だった。


「そんなご謙遜を。大奥は江戸の中心ですぇ。私は新参者でしかないんやから、貴女の方が上どす……ええと、そう言えばお名前は何でしたかぇ?」

 

 そこまでで一旦話を切ると、花園は中身とは裏腹な無邪気な笑み浮かべた。そしてさも不思議そうに頭をかしげる。


「私、下々の名前はすぐ忘れる癖があるんですぇ。せやけど、不思議ですねぇ。確かに貴女の名前を聞いた覚えがあるのに、どうしても思い出せません。貴女の名前、忘れてしもたんやろか」


 天使のような笑みで侍女に笑いかける。すると、侍女がまたも返答を返した。


初島はつしまです。お忘れですか」

「そうやったそうやった、初島さんやったわ。貴女が仰る前に、思い出しましたぇ」

 

 その時だった。閉められた襖の向うから、また別の侍女の声が響き渡った。


「春日局さま、お入りでございます!」


 ザッと勢いよく、襖が開けられた。

 そこに立っていたのは、女狐というよりは女狸おんなだぬきの言いたくなる様な、どっしりと骨太の女性だった。

 黒地に銀糸の雲を織り込んだ、渋好みでありながらも初島より一層豪奢な打ち掛けを着誇って、ぎゅっと結ばれた唇には権力を掌握している女の威厳がみなぎっている。春日局は、柔和にゅうわに笑いながら花園に話しかけた。


「院主様、お久しぶりでございます。わざわざ御用屋敷までご足労をいただき、感謝いたしますわ」


 春日局の、火を吹き出しそうな強い目を見つめながら、花園は優雅に答える。


「こちらこそ、春日局さん。お待ちしている間に、この初島さんに貴女のお話を聞いておりました。聞けば聞くほど、ますます貴女が恋しゅうて、仕方がありませんでしたぇ」


 その時、春日局の顔からサッと笑みが消えた。花園と春日局は一瞬、真顔で睨みあった。

 この瞬間こそ、これから長きに渡って繰り広げられる、二人の女の激烈な闘争の始まりだった。


***


 お父様。

 私はこの時を思い返すと、今でもゾッといたします。

 

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