マイクロブラックホールに落ちる
四葉くらめ
マイクロブラックホールに落ちる
世の中には分からないことがたくさんある。
それは例えば、難解な化学式だったり、やたらめったら寒い冬の朝だったり、初心者向けを謳った
「はい、先輩」
「うん、ありがとう」
先輩は読んでいる本から一瞬たりとも目を離さずにお礼だけを僕に投げかける。
それから、僕が注いできたカプチーノのカップを手探りで探し当て、一口すすった
「カプチーノの微妙な苦さだったり、かね?」
突然そんなことを口にした先輩は、満足そうな顔をしながら、パタンと読んでいる本を閉じた。
「なんの話でしょう」
「私がするのは本の話か、さもなければ君の話だよ」
先輩が肘をついて体を前に乗り出してくる。
少しだけ先輩の顔が近づく。
艶やかな長い黒髪が一房こぼれ、ゆらゆらと揺れていた。
「では本の話でしょうか。会話の文脈的に考えて」
そもそも、店内――僕らは今、放課後ファミレスに来ていた――に入ってからドリンクバーを頼んで、僕が二人分のカプチーノを持ってくるまで大した会話などしていなかった。
それを考えるとそもそもこの先輩が言ったことはある種の文脈的暴言だったわけだが、それも先輩の中ではしっかりと繋がっているらしい。
そして偶然か、僕の思考の文脈とも繋がっていた。
「君の話に決まっているだろう? 行間的に考えてね」
この人の言うことはたまによく分からなくなる。
一体どこの行間を読んだのだろうか。
僕はなんとなく思考を見透かされているような気分になって、気まずくなった。それを紛らわせるために、カプチーノに手を伸ばす。そこにはコーヒーの黒とミルクの白が螺旋状に混ざり合った色が浮かんでいた。
「……カプチーノってなんで微妙に苦いんですかね」
カプチーノが好きか嫌いかと聞かれたら少し返答に困るところである。苦手かどうかと聞かれたら迷い無く「苦手です」と答えるのだが。
「そんな顔をしている割には、君はいつも付き合ってくれるのだよね」
「先輩がカプチーノ好きですからね」
その割にカフェとかに行くところは見たことが無いのだけれど。
「もっとおしゃれなところとか行かないんですか?」
スタバで読書とか、渋谷のカフェで読書とか、先輩すっごい似合いそうなんだけど。
「君が一緒に来てくれるのなら考えるのだがね」
えー。
「ほら、嫌そうな顔するじゃないか」
僕の反応が予想通りだからか、先輩はクスクスと口の中で笑う。
「だって嫌なんですもん。スタバとか頼み方分からないです」
なんだっけ。なんちゃらかんちゃらマキアートみたいな感じのやつ。この間妹が家で練習して舌を噛んでいた。あんな努力しなきゃスタバ行けないとかハードルが高すぎる……。っていうかうちの妹滑舌が悪すぎる……。
「ならば、やはりいつも通りここに来るのが正解というわけだ」
そんなもんかね。まあ先輩がいいんならいいんだけど。
「なにより、私はカプチーノを飲みたいのではなく、君といたいのだよ」
……。
「まるで告白みたいですね」
「好意の告白という意味ではあながち間違いとも言い切れないね」
先輩は顎を軽く手に乗せながら、少し上目遣いに僕を見てそう言った。
「先輩はまるでマイクロブラックホールみたいな人ですね」
「私の胸を見て言っているのかい?」
「自虐ネタに走るのやめましょうよ。っていうか反応に困るのでやめてください」
残念なことに僕の視線は先輩の胸元へと反射的に動いてしまった。そこにはマイクロブラックホールがある。とても小さいのに引き寄せられる何かが……!
って違う。そうじゃない。僕が言いたかったのはそういうことじゃない。
「なんといいますか、すぐそばまで行くとようやく分かるといいますか。分かったときにはもう遅くて沼に嵌まったような感じになると言いますか」
「ほう、〝事象の地平面〟のことかい? よく知ってるね」
事象の地平面とは、言ってしまえばブラックホールの外側と内側の境界のようなものだ。この事象の地平面を超えてしまえば最後、光でさえ外に抜け出すことはできないという物である。
ブラックホールの中心から事象の地平面までの距離はそのままブラックホールの規模と同じと言えるだろう。
先輩の場合は中心から事象の地平面までの距離がとても小さいように感じるのである。
「先輩、学校では基本ぼっちですもんね」
「人と話すよりも読書の方が有意義だからね」
「たまに変な歌、歌ってますしね」
「え、あれそんな変か……?」
少なくとも、普通の人は周りの目があったら中々歌わないと思う。
「ポリっフェノールー♪ ポリっフェノールー♪
ポリっ、ポリっ、ポリっフェノールー♪」
という歌詞が永遠と続く歌である。
まあ流石に人がいるときは鼻歌だけど。
「ちょ、やめて⁉ っていうかなんで君、歌詞を知っているんだね⁉」
先輩は珍しく顔を赤くして僕に詰め寄った。
先輩が焦っているというのが珍しくて、僕はからかうようにニヤリと笑いながら答える。
「この間部室で勉強してるときに歌ってましたよ」
この間の中間テストの時期だ。先輩も僕も部室で勉強をしていたのだが、突然先輩が歌詞付きで歌いだしたのである。
どうやらあの歌を歌っていると勉強が捗るようだった。
ちなみに僕の方はというと歌っている先輩が気になりすぎて全然勉強にならなかった。
「っていうかなんでポリフェノール?」
ポリフェノールと言えば確かコーヒーに多量に含まれる物質で、抗酸化作用があるとかいう話だった気がする。美容にいいとかも聞いたことがあるような?
「特に意味はないんだがね……」
苦笑しながら先輩は一つ溜息を吐いた。
「子供の頃に母が歌って聞かせてくれたのだよ。母曰く『ポリフェノールって音が可愛いじゃない?』だそうだ」
コーヒー全然関係なかった!
「てっきり先輩がカプチーノ好きだからかと思ってました」
「それは寧ろ逆だね。この歌からポリフェノールについてを知り、カプチーノを飲んでみたのさ。
にしても、マイクロブラックホールか。それなら……」
それから先輩はカプチーノを飲み干し、喉を整えるように軽く咳をする。
「君はあと何歩踏み出したら、私のところに落ちてきてくれるのかな?」
にっこりと綺麗な瞳が僕を見つめる。
まるで告白のように。
まさに告白のように。
それは好意とも恋とも愛とも取れそうで、そこに踏み出すにはあと何歩なのか僕にも分からなくて。
「なんかとっくに戻れなくなってる気もするんですよね……」
「ははは、それならブラックホールの中心に激突するのを、楽しみにして待とうじゃないか」
僕の返答に満足そうな顔をすると、先輩はカプチーノのおかわりを取ってくるために立ち上がった。
世の中には分からないことがたくさんある。
でも、今僕がいるこの場所が、もう光ですら出られない事象の地平面の内側であることは確かなのだろう。
〈了〉
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