第49話 朝日タクト
風を感じながらバイクで指定地まで走る。
道が混んでいて中々思うように進まない。
おかげで予想到着時間より三〇分も遅れてしまった。
悪魔がこの世界から根絶されたその日に俺は記憶の大半を失ったらしい。
なんと運が悪い事か。俺は世界で最後に悪魔によって記憶を奪われた二人の内の一人だそうだ。
日常生活に支障が出るほどの記憶は失わなかった。不幸中の幸いというやつだ。
その代わり、それ意外の記憶はすべて失った。知り合いどころか、自分が何者であったかさえも。思い出というものが一つも残っていない。
俺は記憶を奪われる前、大層な事をしでかしたらしく、手厚い援助を受けている。その一例が一生働かなくてもいいくらいのお金だ。
しかしいくらお金があったところで、使い道が無いのが現状だ。胸にぽっかりと開いた喪失感のようなものは一向に晴れない。
ただ、バイクというものにはなぜか惹かれて、記憶が無くなって最初にやった事が免許の取得だった。
今日は免許取得してからはじめての運転。
あえてアナログなバイクを買ったが正解だった。この振動音が安心感をくれる。
そのバイクで向かい、たった今到着したのが、巨大な灰色の施設。
国から多大な援助を受けている反面、制約も多い。その一つがこれだ。
俺は今日からここで共同生活を送ることになる。少なくとも一年間は。
社会性を身につけるために必要なのだそうだ。思い出を作れ、との指令がでている。
共同生活を送る人間は三名。
朝日独唱(アサヒアリア)。
木更津二式(キサラヅニシキ)。
真白世界(マシロレア)。
第一印象は難解な読み方ばかりだな、だった。
写真は無い。名前だけしか知らされていない。
どんな人間たちなのだろうと想像しようとしたがさっぱりイメージできない。人との記憶が無いせいだろうか。
入り口は俺を出迎えるように自動で開いた。
この巨大な施設は丸々研究所らしく、中は機械類がごちゃごちゃと詰め込まれていて、足下も配線だらけで転びそうになる。
靴を脱いですぐのところで、ウェルカムと書かれた紙がくっついた缶コーヒーが目に入ってきた。
これを飲めということだろうか。
特に何も考えずプルタブを引き、ぐいっと一息にあおる。
思わずむせかけた。なんだこのひどい味は。
超絶微糖コーヒー。聞いた事が無い。
その場に空になった缶を置いて、施設内を散策する。
ここに向かえという指令だけで、着いてからの指示は何も無かった。だから歩いて誰かに会う事が先決だと考えた。
巨大な建物の割に窓が数えるほどしか無い。そのせいか窓のある廊下だけは小綺麗だった。
そこで小さな花瓶を見つけた。
黄色くて、人の顔みたいな、愛嬌のある花。
花瓶にメモが貼られている。
『名前……パンジー 花言葉……私を思って』
ふうん、そうなのか、という感想しか出てこない。
私を思って、か。何の記憶も、思い出も持たない今の自分に誰かを思う事なんて不可能だな。
その花瓶に近くには何枚も何枚もポスターが貼られていた。
夏祭りに行こう!
ポスターにでかでかと打ち出されている文字。
今は一一月。季節外れにも程がある。
奇妙なものだ。共同生活者の中に変人が混じっているのかもしれない。
廊下を渡り終わり、入り組んだ通路を通っていると、ある扉を見つけた。
この施設にはおよそ似つかわしくない、西洋風な扉。そのあまりの異質さに目が引かれた。
中から人の気配がする。扉と床の隙間から空気が押し出されている事から窓を開けている事が分かった。
ようやく共同生活者の誰かと会える。最初に会うのは三人のうちの誰だろうか。
コンコンコン、と三回ノック。
「どうぞ」
澄み渡るような、細く高めの声。女性だ。
落ち着くために深呼吸をする。
よし、行こう。はじめの挨拶が肝心だ。
昔からなのか、記憶が奪われたからなのかどうかは分からないが、俺はあまり表情が動かせない。だから笑顔は無理にしても、せめて言葉遣いは丁寧に、不快感を与えないよう。
そう意気込んで、扉を開け、第一声を発しようとした時。
さあっと、風が吹き抜けた。
続けて、光。
こちらの窓は太陽の方に面しているらしく、陽の光が目に飛び込んでくる。
真っ白な世界。
目が光に慣れると、白さが消えていき、段々と部屋の中が見えてくる。
はためく白いカーテン。白いワンピース。
そして、真っ白な少女。
一言も発せなかった。
どうしてか、胸が締めあげられるかのような切なさが湧いてくる。
涙がこぼれそうになる。
「あなたは、誰?」
先に口を開いたのは少女だった。
原因不明の感情にさらされている胸の内を悟られないよう、平静を装って応える。
「俺は朝日タクト。今日からここで世話になる」
「そう。あなたが新入りさんだったのね。わたしは、真白レア」
「君が真白さんか。これからよろしく頼む」
「こちらこそ、よろしく。ところで朝日さん、これ知ってる?」
「ルールだけなら」
真白レアがテーブルに置いたのは、白と黒のコントラストで構成されている盤と駒。既にキングとクイーン以外が配置されている。
物問いたげな俺の視線を察してか、真白レアは手で弄んでいた黒のキングと白のクイーンを盤上に置いた。
「最近覚えたんだけど、相手がいなくて。もしよければわたしとチェス、してくれない?」
その言葉を、どこかで待っていた自分に気付く。
さっきから何なんだ一体。
自身の心の揺れに戸惑いつつも、不思議と笑顔になれた自分がいた。
その事に自分で驚く。おかしいな、俺、笑えなかったはずなのに。
視界に入る、風で揺れていた真白レアの肩をくすぐるくらいの髪を見て、なんとなくこの子には長髪が似合うような気がするな、と思った。
真白レアの提案。どう返答するかなんて、考えるまでもない。
「いいよ。やろうか、チェス」
そう応えた時の真白レアの純粋無垢な笑顔に、俺は思わず目を細めた。
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