第33話 ミルクティー
それからの日々は、あっという間に過ぎ去った。
屋敷に悪魔が現れたのは先月のあれ一回きりだったため警戒を続けつつもレアと平穏な日常生活を送る事ができた。
無論、救援要請は続いた。立て続けての戦闘で疲労が溜まるが、レアの前でそれを見せるわけにはいかない。
昨日はついに俺がチェスで敗北を喫した。俺の方が先にはじめたのにもう追いつかれてしまうとは。地頭が良いんだろうな。
一〇月二五日。ついに護衛任務終了まで一週間をきった。
ベッドから降り、カーテンを開け日の光を浴びる。
今日は政府の人間から護衛任務後にある護送任務の詳細を聞く事になっている。そのため午前一〇時にはここを発たなければならない。それまでにルーチンワークを済ませないと。
時刻はきっかり六時。習慣は崩れる事なく身体に染み着いている。
その事をレアも分かってきたのか、今し方控えめにノックをする音が聞こえてきた。俺との記憶を失ってからのレアがこうやって俺の部屋を訪ねてくるのははじめてだ。しかもこんな早い時間に。
「どうぞ」
ノックの音と同じく恐る恐る控えめに開かれたドアから片目だけのぞかせてこちらを見ている。
「起きてる?」
「ああ。この時間に起きるのを分かってて来たんだろ? 何か用があるのか?」
「チェス、しませんか?」
「なんで敬語なんだ。……やろうか。場所はどこがいい? この部屋でもいいし、いつものように下のリビングでも」
「庭がいい」
庭か。今まで屋外ではやった事が無かったな。新鮮で良いかもしれない。
「分かった。着替えてくるから一〇分後に直接庭に集合にしよう。朝ご飯の時間が遅れるかもしれないが大丈夫か?」
「一向にかまわない」
「そうか。ならまた後で」
レアはコクリと頷き、来たときと同じようにゆっくりとドアを閉めた。
昨日が初勝利だったからかな。買った時の感覚を忘れないようにとか考えて、いてもたってもいられなくなったとか。
どちらにせよわざわざこんな朝早くからやりたがるという事は何かしらの感情が働いているという事で、それすなわち質の良い記憶の蓄積が行われている、という事だ。
なら俺はそれに応えるまでだ。
それにチェスをする事は俺にとっても習慣になってしまってきている。ここ数日はやらないと落ち着かない気分だ。ヒマな時は教本を読む事も多くなった。
習慣は崩れる事無く身体に染み着いている。きっと護衛任務が終わってまた一人の生活に戻っても、俺はチェスを辞めないだろう。
一〇分後。
庭ではばっちり準備を整えていたレアが待っていた。
いつも着ているワンピースタイプの白い服。すでに駒が配置されているチェスセット。
朝特有の澄み切った空気が肺を満たす。
「レア、ちょっとだけ待っていてくれないか。紅茶を入れてくる」
「うん」
あと足りないのは茶だな。
そういえばレアは記憶を失う前、たまにだがアッサムのミルクティーを飲んでいたな。なんでたまにしか飲まないのか聞いたら、たまにしか飲まないから美味しいのだと言っていた。
記憶を失ってから今日まで飲んでいるところを見たことが無い。
茶葉も牛乳も残っているのを確認。淹れてみるとしよう。
何度か飲ませてもらった記憶を頼りに牛乳の量、味の濃さを調節して再現してみる。
うん、完全では無いがそこそこ再現されてるな。これなら大丈夫だろう。
駒を手にとって眺めていたレアに紅茶を差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
レアは駒を盤上に戻してから、早速カップに口をつけた。
一口だけ口に含んでから、なぜか静止する。
なんだこの反応は。もしかして口に合わなかったか? 以前好きでも記憶を失っていた場合はそういう事もある。俺があのコーヒーが好きだった理由が分からなくなったように、レアも。
「……すごく、美味しい。わたしの好みそのままの味。驚いた」
かつて自分自身でこのミルクティーを好んで淹れていたのだから当然と言えば当然か。俺が特殊だっただけで本来はこういう反応になるはずだ。
「喜んでもらえたようでよかったよ」
「タクトは、わたしが知らないわたしを知っているのね」
あまりにも透明な瞳でそう言われたので、一瞬頭が真っ白になる。
レアはたまにこういう瞳で俺を見てくる時がある。無表情で声音も変わらないのに、何か強いメッセージが込められていると分かる瞳。
「……ほんの少しだけだ。俺がレアについて知っている事は僅かしかない。カップの中に満たされているミルクティーのうちの一滴くらい」
「わたしのカップにはもうほとんどミルクティーは残っていない。だから、その一滴の割合はタクトが考える以上に大きくて、わたしにとってはなにより貴重なものなの」
先ほどはあまりにも無色透明な瞳から視線を逸らしてしまったが、今度はしっかりと目を合わせる。
「その残り少ないミルクティーをさらに減らしてしまったのは、俺だ。俺があの日レアを守れなかったばかりに」
「ストップ」
話を続けようとした俺の口を、レアのしなやかで細っこい指が押しとどめる。ひんやりしていて、思わず黙ってしまう。
「その話はもういい。記憶は無いけれど、その時のわたしはあなたを庇いたかったから、守りたかったからそうしただけ。全部自分の意思だったはずなの」
レアはまだ指を離してくれなくて、俺の発言は禁止されたまま。俺はただレアと視線を合わせて耳を傾けるしかない。
レアは目を閉じ、何か考え込んでいるかのような間をとった後、小さく息を吸い、再びそのサファイアのような青い瞳を俺に向けながら、ささやくように、けれどしっかり耳に届くように、言葉を紡いだ。
「わたしがそうしたのは、きっと、あなたに救われていたから」
予想外、想像外の理由。
レアは言い終わるとともに指を俺の唇から離してくれたが、言うべき事が見つからず、結局沈黙が続くばかりだった。どうしても言葉の意図が理解できない。
「それって、どういう」
「二度は言わない」
「……そうか」
「うん。そう」
短くそう言ってレアは唐突に盤上のポーンを動かした。早くチェスをはじめようという意思表示。
発言の意図を察しようとしたが検討がつかない。そうしている内にすっかりいつものレアに戻ってしまい、もはや何も読み取れなくなってしまった。
違う質問をしてみよう。俺にはまだ気になっていた事があるのだ。
「それはいいとして、なんで今日に限ってこんなに朝早くからチェスをしようと誘ったんだ?」
俺もポーンを動かしながらそう聞く。
「タクトと過ごすのはあと一週間だけ。あと一週間だけだと思ったら、時間がもったいなく感じた。それだけ」
レアの次手はナイト。トリッキーな動きはいつ見ても目を引かれる。
それだけ、と突っぱねるように言ったという事は、質問は受け付けないというサインだろう。
記憶を失う前でも後でも、レアには振り回されっぱなしだな。
チェスの盤上でもレアに振り回されないよう頭をフル回転させながら、しみじみとそう思った。
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