白き世界は記憶の果てに

深田風介

第1話 悪魔が降臨した日

 少女がいた。

 華奢な背中。風にあおられ揺れている純白の長髪。

 こちらからは、その表情をうかがい知ることはできない。

 世界の深淵へ臨む彼女は今、何を考えているのだろう。どんな感情を、その美しい面おもてに浮かべているのだろう。

 唐突に彼女は振り返る。その貌はあまりにも――――。


「朝日タクト。君に本日二〇二五年八月一日より三ヶ月間の護衛任務を頼みたい」


 鋭い目つきに、パリッと引き締まった雰囲気。ダークグレーのスーツがよりその雰囲気を演出している。

 俺は今、狭い会議室で目の前のいかつい男と向き合っていた。盗聴、盗撮対策が施されているせいか窓はおろかスキマ一つなく、音も響かない。


 政府の重役から呼び出しがあったから何事かと思ったがなんてことはない、いつも通り任務についての話だ。ただ目の前にいるのは、普段俺と連絡をとっているやつよりも遙かに位の高い人物らしい。名前や身分は不明。政府の重役という曖昧な情報しかない。だが、そんなことは一切気にならない。

 俺は上からの任務をこなすだけ。一介の傭兵にすぎない俺は上の意向や思惑など考える必要はないし、知りたいとも思わない。俺はヤツらを倒せればそれでいい。


「護衛任務なんて珍しいな。いつものように討伐任務じゃないのか?」

「違う。この任務は君でなくては務まらない。実質世界一の実力を持つ君でなくては。我が国の最大戦力たる君をたった一人の人物、それも三ヶ月間も護衛につかせるなど、と思うかもしれないが、その人物はそこまでする価値のある人物なのだ」

「俺はそんな実力者じゃない。突出した力なんて持っていない」

「確かに能力だけを見れば我が国だけでも君の上に一〇人はいるだろう。しかし我々は君の実績に注目した。単独でのグレード6の討伐に加え、総討伐数は随一。ヤツらとの戦闘において実績に勝る信用は無い。だから、君に頼みに来たのだ」


 底冷えのするような目、声。大きな責任を背負っている者特有の覚悟を感じる。頼むというよりこれは実質命令だな。


「……それで、任務の概要は?」

「協力、感謝する。概要はこの書類に記載されている。目を通してくれ。尚この部屋を出る際にその書類は焼却処分させてもらう。メモ等とるのも禁止だ」

「えらく慎重だな。それにしてもこの時代に紙媒体なんて」

「慎重にもなる。国家的なプロジェクトだからな。紙媒体なのは、その方がかえって情報の漏洩を防げるからだ。データを渡すことはできない。だからこの時間で記憶するようお願いしたい」

「了解した」


 書類はA4の紙二枚。一枚目は任務の概要。二枚目は護衛対象についての情報。

 何度も読み返し、頭に叩き込む。紙二枚分だ。さほど苦労はしなかった。

 俺は書類から目を離し、机の上に戻す。


「質問等あればこの時間のみ答えよう」

「任務については特にない。ただ一枚目の最後に、三ヶ月の護衛任務後にもう一つ任務にあたるよう書いてあるが、この任務とは何だ?」

「護送任務だ。それ以上は言えない。その任務については護衛任務終了の一週間前に再びここで説明を行う。それまでは護衛任務の方に集中してもらいたい」

「なるほど、分かった。それともう一つ。答えてはくれないだろうが一応聞いておく。この任務の目的は?」


 国家機密級の情報だろうから返答に期待はしていない。聞いても意味はないことは分かっている。けれど聞かずにはいられなかった。あまりに特殊な任務、護衛対象だったから。


「申し訳ないが、それには答えられない。今後任務発案者から話があるかもしれないが、今は無理だ」

「だろうな。じゃあ早速任務にあたらせてもらう。任務開始は今日からだろう?」

「そうだ。では、車を手配する。到着までロビーで待つように。任務で必要な物は現地で支給される。なに、君にとってはこんな任務造作もないだろう。それでも気を抜かずに任務にあたってもらいたい」

「重々承知している。もう行ってもいいか?」

「ああ」


 政府の重役だというその男は、俺が出ていく少し前にはもう書類に火を点けていた。

 徐々に焼け落ちていく紙。燃え盛る炎。それが、やけに印象に残った。

 ロビーで待つこと一〇分余り。玄関外に一台の黒塗りの車が現れた。

 俺が近づくと自動的にドアが開く。中は無人。自動操縦車か。

 高級そうな座席に腰掛けると即座にドアが閉まり、なめらかに車体が滑り出す。目の前に映し出されたモニターには所要時間:六時間と表示されていた。こんなに長時間の移動になるなんて聞いていなかったな。

 やることもないため、ガラス越しに外の風景を眺める。


 一定間隔にある平たい家屋。高層ビルなど一つもない。開発され尽くした土地に、無機質な町の景観。外に人影はほとんど見られず、荷物を抱えた無人機がそこかしこを走り、あるいは飛んでいる。

 この町だけではない。今や日本中、いや、世界中がこんな感じだ。


 一〇年前、『マクスウェルの悪魔』が現れてからこの世界は一変した。


 マクスウェルの悪魔。やつらはそう名付けられた。

 最初に発生したのは東京。とあるスクランブル交差点の真ん中に、そいつは現れた。

 後にグレード1・スライム型と名付けられるそいつは人間の子ども程度の小さな丸い塊だった。半透明で色がなく、それどころが実体すらなかった。例えるなら無色透明なゼリー。あるいは、幽霊。


 誰もが目を疑った。やつは人間が歩くくらいのスピードで移動し――――通行人と接触した。そして、何事もなかったかのようにすり抜けたのだ。実体が無い故、文字通り音も無く。

 ホログラムかと疑った者もいたが周囲にそれらしき機械は見当たらない。そのうち動画を録る者や面白半分に自分からすり抜けていく者がでてきてちょっとした騒ぎになった。

 ヤツは人を通り抜けていくたびに少しずつ大きくなっていき、五メートルを超えたあたりで流石に見物人たちもこれは何か危ないと距離をとり始めた。騒ぎを聞きつけた警官たちも、あまりの異常事態に通行規制等を行うことを忘れただ唖然とヤツを見ていた。


 そしてついにその時は訪れた。


 高さ三〇メートルにまで達したマクスウェルの悪魔が、数人の人間を通り過ぎたあと、その人間たちに明らかな異常が発生した。

 急に歩けなくなった者。何か言おうとしているのに言うことができず、あうあうとしかうめくことができなくなった者。

 それからスクランブル交差点を中心に大混乱が起こる。

 逃げ遅れた者たちを次々通り過ぎ、ついにその大きさは五〇メートルを超えた。

 やつが通った後には、身の毛のよだつ光景が広がっていた。

 老人、大人、子ども。多数の人間が例外なく全員、歩くことも話すこともできず、ただ地面に転がって笑ったり泣いたりしていた。そう、まるで赤子のように。


 マクスウェルの悪魔は、実体を持たぬが故に何も傷つけない。

 ただ人間の記憶を、奪い去るのみ。

 これが歴史の転換点、『悪魔が降臨した日』。


 当時六歳だった俺は、高層ビルの中からその光景を見ていた。今でもはっきりと覚えている。世界にはじめて出現した悪魔が多くの人々を呑み込み、その後パッと消えてしまったことも。

 車の外を流れゆく景色を眺めながら、あの日の東京を思い浮かべる。あれから一〇年経った今、かつての面影は全くと言っていいほど無かった。

 マクスウェルの悪魔の出現が、科学力を大幅に押し進めたのだ。戦争は発明の母という言葉があるが、まさにこの一〇年はやつらと人類の戦争の時代で、その結果、人々の生活は大きく変容した。

 統計データにより、マクスウェルの悪魔は人が密集した地域に多く出現する傾向があると判明した。その結果少人数あるいは一人で生活するようになり、買い物はすべて無人機による宅配となった。イベント等もすべてネット配信。一度に数百人規模の人が集まる光景は、もう見ることはできなくなった。


 ヤツらのせいでほぼすべての地域、国の生活スタイルが統一されてしまったのだ。

 どれだけ進もうが全く同じ景観が続くため、外を眺めることに飽きるのに一〇分とかからなかった。

 最近連戦や長期戦ばかりだったためロクに睡眠がとれていない。今のうちに仮眠をとっておこう。この車には悪魔が現れた際にアラームで知らせてくれる機能がついているらしいからその点は安心だ。

 車内に備え付けてあったブランケットをかけ、目を閉じる。


 久しぶりに夢でも見たい気分だ。数年前から夢を見ることがなくなったから、それは叶わないだろうけど。

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